方丈記に、似た運命

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崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしはありけりと聞けど、

【原文】
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしはありけりと聞けど、その世の有り様は知らず。まのあたり、めづらかなりしことなり。

【訳】
崇徳天皇の時代、長承の頃に、このような飢饉があったという話を聞くけど、当時の被害の状況は知らない。たた、今回、飢饉を目の当たりにして、このような光景はめったにないことだと思った。

【わがまま解釈】
今回で、養和の大飢饉のお話も最終回。
いやー、長かった。
いや、長いも短いも、僕のさじ加減一つなんだけど。。。

それで、長明さん、今回の飢饉のことを考えていたら、昔も似たようなことがあったと思い出す。
但し、実際の被害状況は分からない。
一応、崇徳上皇と長明さんの生きた時代は、9年間ほど重なっている。
だから、いわゆる「いにしえの人物」ではない。

ただ、長承という時代を調べてみたら、1132年から1135年の間の時代を指すらしい。
長明さんは、1155年生まれと言われている。
だから、長明さんは、この時代を知らない。
とは言っても、長明さんは、下鴨神社の社家の子。
全く知らないこともないだろう。

というわけで、長承の飢饉について調べてみた。
ところが、あまり詳しい情報がない。
どうやら、飢饉としては、そこまで酷いものではなかったのかもしれない。
ただ、いくつか、興味深い文章をみつけた。

以下は、春日若宮おん祭のホームページから。

「春日若宮おん祭について」

春日大社の摂社である若宮様に長年の大雨・飢饉・疫病の根絶を祈願したのが始まり。
長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。
若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。
御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天の続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百八十有余年にわたり途切れることなく、今日に至ります。

これを読むと、どうやら、長承の飢饉というのもあったのだろう。

また、Wikipediaによると、長承の飢饉の当時、朝廷に藤原敦光という者が仕えていた。
で、崇徳上皇が藤原敦光に対して、飢饉の対策について意見を求めている。
そして、藤原敦光は、次のように答申している。

・減税を行うこと
・優秀な公務員を育成すること
・老人、貧者に対しては、より一層の施しを行うこと
・盗賊に対しては、必要な物資、土地を与えること

そして、藤原敦光は、「安不忘危、古之炯誡也」という言葉を残している。
なるほど、そういうことか。
って、全く意味が分からない。
そもそも漢文だし。。。

これ、「安くして危きを忘れざるは、古(いにしえ)の炯誡(けいかい)なり」と読む。
意味としては、「平時に危険を忘れないということは、昔の人たちが強く戒めるところである」ということらしい。
うーん、藤原敦光、良い言葉を残している。
ところで、この藤原敦光の教訓、養和の大飢饉で実践されたのだろうか?

で、ここからは余談。

昔からよく「三大○○」っていうのがある。
で、その中に、日本三大怨霊っていうのがある。
うーん、全然ありがたくない「三大○○」なんだけど。

で、日本三大怨霊が誰の怨霊かと言うと、平将門、菅原道真、崇徳上皇の三人なんだそう。
まさか、こんなところで崇徳上皇と出会うなんて。

崇徳上皇は、上皇にまでなった人物だけど、父・鳥羽上皇に利用されるだけの不遇な人生を送っていた。
よく分からないけど、父・鳥羽上皇が亡くなる際には、「崇徳上皇が来ても追い返してくれ」と言い残して亡くなったそうで、崇徳上皇は、最期の面会すら許されなかったらしい。
うーん、よほど父・鳥羽上皇から嫌われていたんだろうか。。。

父・鳥羽上皇亡き後は、後白河天皇(崇徳上皇の弟。後の後白河法皇)と争い、保元の乱が起きるが、これに敗れている。
そして、崇徳上皇は、讃岐国(今の香川県)に島流しとなる。

崇徳上皇は、讃岐国(今の香川県)で、仏教に救いを求めて、ひたすら写経をしたらしい。
で、国家鎮守を願って、その写経したものの一部を後白河天皇に送り届けたところ、「気持ち悪っ!いらんわ!」と言われる。
で、それを聞いて怒り狂った崇徳上皇は、「絶対に許さん!呪ってやる!この国を滅ぼしてやる!」と言うと、病気がちになり、そのまま亡くなったらしい。
ちょっと表現が俗っぽくてあれだけど。。。

それで、崇徳上皇が亡くなったものの、朝廷は崇徳上皇のお葬式をしなかったらしい。
まー、保元の乱で敗れていて罪人扱いだから、お葬式をする必要はないと思ったのかもしれないけど。
で、讃岐国(今の香川県)の国司が、小さなお葬式を執り行ったとか。
で、人々の記憶からも完全に忘れ去られてしまう。

ところが、事態が急転する。
崇徳上皇が亡くなってから十年ほどが経つと、再び、動乱の世の中となる。

・方丈記にも出てきた五大災厄
・延暦寺の強訴
・朝廷内でのゴタゴタ
・源平の戦い

こういったことが立て続けに起きるようになった。
で、人々が、不安に駆られる。
そんな中、ある人が「これって、崇徳上皇の祟りじゃない?」と言い出したから、朝廷は大パニックになる。

「やっぱりそうか!?」
「マジ、やばいって!」
「崇徳上皇の霊をお慰めしなければ・・・」
といった会話があったかは分からないけど、とにかく崇徳上皇の怨霊をなんとかしないとまずいことになると判断した朝廷は、崇徳上皇のお祭りを行う。

まー、その効果があったかはあったかどうかは知らないけど。
しかも、その後も動乱が続くと、今度は「清盛公の怨霊のしわざだ」と世間では大騒ぎをしたとか。
いやー、完全に陰陽師の世界だよね。。。

と、まー、崇徳上皇はこのような人物。

今回はこの辺で。

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