方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみをもって、国を治め給ふ。

【原文】
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみをもって、国を治め給ふ。すなはち、殿に茅ふきても、軒をだにととのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりある貢物をさへゆるされき。これ、民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

【訳】
伝え聞くところによると、昔の名君と謳われた天皇の時代には、天皇は愛情や慈しみ慈愛の精神で国を治められた。すなわち、自らのお住まいは質素な茅葺にして、その長さを整えることもしなかった。民百姓の家々から煙が立つのが少ないのを見ると、税の免除を実施した。これは、民百姓を大切に思い、世の中を救済しようと思われたからである。そのような昔の世と比べると、今の世が全く異なるということが一目瞭然だ。

【わがまま解釈】
今回で、福原遷都のお話は最後。
ただ、福原遷都の話題は一つもないけど。

ここでは、昔の為政者がどういう姿勢で国を治めたかというお話が書かれてある。
それで、かつて名君と謳われた天皇は、民百姓を慈しみ、慈愛の精神で国を治めたとある。
その具体例として、

・自分のお住まいは質素な茅葺にして、その長さを整えることをしなかった。
・民百姓の家々から煙が立つのが少ないのを見ると、税の免除を実施した。

といった話が書かれてある。

うーん、確かに名君ですね。
いつの世でも、為政者には、このような慈愛の精神を持っていて欲しいですよね。
まさに、為政者の鏡ですね。

ところで・・・

この天皇って、誰?

気になりませんか?

で、調べてみた。
すると、この天皇は「仁徳天皇」だった。
仁徳天皇と言えば、仁徳天皇陵。
そのまんまだけど。

ただ、意味もなく世界一のお墓を作っただけではなかったらしい。
ちゃんと民百姓を思いやる政治をしていたんですね。
だからこそ、「仁徳」天皇なんだろうけど。

このお話、「民のかまど」と言うらしい。
で、古事記や日本書紀に書かれてあって、そこそこ有名なお話なんだとか。
まー、僕は知らなかったけど。。。

それで、仁徳天皇の父の代・応神天皇までは、都は大和国(今の奈良県)にあったらしい。
それが、仁徳天皇の代になって、都を難波宮(今の大阪府)に遷都したんだとか。
理由は分からないけど。
遷都という点では、福原遷都も同じか。

で、仁徳天皇、自分の宮殿から、都を見渡してみた。
すると、人家からほとんど煙が上っていないことにビックリする。

「みんな、ちゃんとご飯を食べているのか?」
「都がこの有様なら、地方はもっとひどいのか?」

なんてことを思ったそう。
かまどの煙が少ないのを見て、人々が貧しい生活を強いられていることを知るなんて、ねー。
本当に良い天皇ですね。

それで、仁徳天皇、思い切った決断をする。
都の人たちに、これから三年間は、税を免除すると宣言をする。
その結果、どうなったかと言うと、朝廷の収入はゼロになった。

当然だけど、仁徳天皇の宮殿もボロボロ。
来ている服だってボロボロ。
屋根が壊れて、ところどころ雨漏りもする。
夜は、屋根の隙間から星空が見える。

ところが、仁徳天皇はこの状況に大満足だったそうです。
不思議に思った皇后が仁徳天皇に訳を聞くと、次のように答える。

「見なさい。この三年で人家から多くの煙が立つようになった。これは、人々の暮らしが豊かになったからだ。だから、私は、自分がみすぼらしくても満足なのだ」と。

仁徳天皇、かっこよすぎる。
いやー、こういう人が上に立てば、庶民の暮らしは安定するんだろうね。

で、一応、税の免除期間は三年だった。
しかし、最終的に、さらにもう三年、免除期間を延長している。
その後は、再び、税を集めるようになったけど、人々は、今回の税の免除に深く感謝したんだとか。
そして、人々は、自らすすんで仁徳天皇の宮殿を立て直し、難波宮も栄えたそう。

めでたし、めでたし。

まー、出来すぎた話かもしれないけど、とても良いお話だと思う。
長明さんは、歴史ある下鴨神社の子として、この話を知っていたと思う。
で、同じ遷都にしても、昔の為政者は、民百姓に対して思いやりがあった。
ところが、今の為政者は、全くそれがない。
なんてことを思ったんじゃないでしょうか。

ちなみに、ウィキペディアでは、仁徳天皇の実績として以下が紹介されている。

・河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
・山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
・茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
・和珥池(わにのいけ、奈良市か?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。
・灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
・紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
・紀角宿禰に無礼を働いたとして百済から日本に送られた酒君に鷹狩を始めさせた。
・朝貢を拒否した新羅に上毛野竹葉瀬と田道の兄弟を派遣して討伐した。
・呉(宋)と高麗(高句麗)が朝貢してきた。

ところで、この民のかまどの話、実は、北畠顕家も記している。
北畠顕家は、南北朝時代の南朝方の公家・武士で、後醍醐天皇に仕えていた。
昔、大河ドラマ・太平記では、後藤久美子が演じていた。

後醍醐天皇は、建武の新政を行ったけど、完全に失敗に終わってしまう。
そして、足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻す。
そして、北畠顕家は、後醍醐天皇から足利尊氏を討つように命じられ、二人はしのぎを削る。

その北畠顕家が、最後の戦いに挑む前に、後醍醐天皇に北畠顕家上奏文という書状を送っている。
これは、北畠顕家が、建武の新政が失敗した原因を、分析して記したもの。
その書状の中に、「税を免除し、倹約を行うこと」という項目がある。
そこには、「戦争によって民が苦しんでいるので、仁徳天皇の行いを実行すれば、民も自然と後醍醐天皇に従うようになり、敵もまた帰服して戦争は終わるだろう」といったことが書かれてあるんだとか。

分からないけど、昔から、仁徳天皇の政治というのは、一般常識としてみんな知っていたんだろうか。

そして、その書状を書き終わると、北畠顕家は戦場に向かい戦死する。
名君、文武両道、若き勇将と謳われた北畠顕家、享年21。
個人的には、新田義貞よりも、北畠顕家の死の方が、南朝に与えたショックは大きかったように思う。

今回はこの辺で。

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