方丈記に、似た運命

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鴨長明~人生の反撃

今回は、長明さんの人生の反撃の話。

長明さん、四十半ばの頃、和歌所寄人に選ばれた。
で、「そもそも和歌所寄人って何?」ってなる人もいると思う。
これ、後鳥羽上皇が、新古今和歌集を作るために作った朝廷の部署。
選ばれたメンバーは、藤原定家、飛鳥井雅経といった当時の和歌のスターばかり。
このメンバーの中に、長明さん、追加募集だけど選ばれる。

ただ、長明さん、それまでずーっとまともに働いたことがない。
そんな人が、いきなり国家の一大プロジェクトのメンバーに任命されたわけ。
多分、周囲は、「こいつ、使えるんかなー」ってぐらいは思ったかもしれない。

実際、当時の同僚だった源家長の源家長日記によると、

「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。」

と書いてある。
で、これ、源家長が何て書いているかというと、

「だいたい、この長明というのは、みなしごで、下鴨神社の仕事もせずに、部屋にずーっとこもってばっかりだった。それが、歌人として後鳥羽上皇のもとに出仕するようになり、やがて和歌所寄人として働くようになると、いつも歌会に参加もし、途中で抜け出すこともなく、昼も夜も和歌所寄人として一生懸命に働いた」

とあるのね。
好きな和歌で仕事ができて、長明さんも一生懸命働いたんだと思う。
そもそも、長明さん、前も書いたけど、和歌の腕前は超一流なわけ。

で、その一生懸命働く長明さんの姿を見て、後鳥羽上皇が格別の褒美を与えようとする。
ちょうどその頃、下鴨神社の摂社の一つに河合神社というのがあって、そこの禰宜に一つ欠員が生じた。
で、後鳥羽上皇、長明さんを河合神社の禰宜に推薦した。

で、それに対して、長明さんがどういう反応を示したのかが気になるところ。
で、その様子が、これまた源家長日記に残っているのね。
どうも、源家長は、鴨長明のことを好意的に見ていたようで、鴨長明のことを記録に残している。
ごめん、好意的かどうかは分からないけど、気になる存在であったのは間違いないと思う。

「しかあれば、事のついで求めい出でて、さるべき御恵みあらまほしくおぼしめいたる折しも、川合社の禰宜欠いてきたるを、世人も「この度は長明になし給びてむずらむ」と思へば、いまだ申し出ださぬさきに、さる御気色侍りしかば、ないないも漏れ聞きて、喜びの涙せきとめがたき気色なり。」

後鳥羽上皇としても、何か褒美を与えようと思っていたところ、ちょうど河合神社の禰宜に欠員ができた。
それで、その補充要員として、鴨長明を推薦することにした。
すでに、周囲の者たちは、「今回の河合神社の禰宜は、長明さんできまりだろう」と言っている。
実際のところ、長明さんは、正式に、後鳥羽上皇からその話を受けたわけではなかった。
ところが、周囲からの漏れ聞こえてくる話に、長明さんは、うれしさを我慢できず、涙を流して喜んだ。

分かりますか?
後鳥羽上皇から正式な話が来る前から、「長明さん、どうも、河合神社の禰宜になるらしいよ」という噂を聞くわけですよ。
で、もーね、その噂話だけで、長明さん、うれしくて泣いてるんです。
しかも、50歳前の大人が泣いているわけ。

いやねー、僕は、何となく、長明さんの気持ち分かりますよ。
そりゃー、嬉しかったと思いますよ。
「後鳥羽上皇もとで、一生懸命働いて良かった」と思ったんじゃないですかね。

二十代の頃に、下鴨神社の正禰宜惣官の地位を巡って、鴨祐兼と争った。
で、これに敗れる。
そして、神職の道をあきらめた。
それ以降は、万事が坂道を転げ落ちるような人生を歩んだ。

家族と別れて、仕事もせずに引きこもりの毎日。
そして、唯一、趣味だった和歌と音楽に没頭することで過ごす毎日。
そんな長明さんに、再び、神職の道へ進むチャンスが来たんですね。

しかも、河合神社の禰宜というのが、また良いんですよ。
というのも、長明さんの父・長継も、河合神社の禰宜を経て下鴨神社の正禰宜惣官になっていたんですね。
だから、長明さんは、余計に嬉しかったんですよ。

で、長明さんの河合神社の禰宜就任は、間違いないと誰もが思っていた。
ところが、ここで、思いもよらない展開が待ち受ける。

それは、あの鴨祐兼が、再び、長明さんの前に立ちはだかるわけ。
どうもこの二人、相性が良くなかった。
事あるごとに、鴨祐兼は、鴨長明の前に立ちはだかる。
そして、鴨祐兼は、河合神社の禰宜に、自分の息子・祐頼を推薦してきた。

祐兼の言い分は、次のとおりだった。

◆息子・祐頼の方が官位が高い。
 (祐頼は正五位下、長明さんは従五位下)
◆長明の方が年上ではあるが、下鴨神社の仕事をきちんとしているのは息子・祐頼である。
◆自分の意見は、下鴨神社の正禰宜惣官の意見として十分に尊重されるべき。

後鳥羽上皇が推薦する長明さんと、鴨祐兼が推薦する息子・祐頼。
この二人の間で、どちらが河合神社の禰宜に相応しいかの争いが起きる。
結論から言うと、河合神社の禰宜になったのは、鴨祐兼の息子・祐頼だった。
後鳥羽上皇の推薦があったにもかかわらず、長明さん、河合神社の禰宜になり損なってしまう。

まー、正直、ショックだったとは思う。
手を伸ばせば、届くところに自分の夢が横たわっている。
長明さん、これを掴みそこなうことなどないと思ったかもしれない。
しかし、長明さんの夢は、指の間からすり抜けてしまった。

そして、長明さんの人生の反撃も、事実上、これで終わる。
それで、後鳥羽上皇、落ち込む長明さんを気の毒に思ったのかもしれない。
後鳥羽上皇は、下鴨神社にある小さな神社の格を上げて、長明さんをそこの禰宜に推薦しようとした。

ところが、長明さん、これを断ってしまう。
しかも、収まりがつかなかったのか、なんと和歌所寄人の職さえ辞めてしまった。
その様子を、源家長日記では、「長明さん、まさかここまで強情だったとは・・・」とある。
後鳥羽上皇から戻っておいでと言われるも、結局、戻ることはなかった。

で、ちょうどこの頃、長明さんが詠んだ和歌がこれ。

見ればまづ いとゞ涙ぞ もろかづら いかに契りて かけ離れけん

これ、どういう意味かと言うと、

もろかづらを目にすると、どうしても涙が溢れてしまう。
どういう因果があって、自分は、下鴨神社から離れることになってしまったのだろう。

※もろかずら=下鴨神社のシンボルである葵のこと

この和歌を詠む限り、長明さんは、やっぱり神職の道を歩みたかったんだと思う。
父がトップを務めた下鴨神社で、自分も神職に就きたかったんだろう。
この和歌を思うと、僕は、長明さんのショックが分かるような気がする。

その後、長明さんは、大原で一人生活をする。
で、たまたま、源家長が長明さんに会う機会があった。
が、あまりにもやせ衰えていて、その姿に驚いたそう。

多分、長明さんも、もう、自分の出世の道はなくなったと思ったに違いない。
ところが、これで終わらないのが長明さんなのね。
60歳を目前とした頃に、和歌所寄人の時に仲間だった飛鳥井雅経から、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の和歌の師匠に推薦される。
で、長明さん、飛鳥井雅経と一緒に鎌倉に行き、源実朝と面会する。
でも、ここでも、長明さんは、源実朝の和歌の師匠になることは叶わなかった。
つくづく長明さんという人物はついてないのかもしれない。

このあたりの話は、方丈記には書かれていないけど、吾妻鏡に書かれてある。

今回はこの辺で。

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