方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、

【原文】
おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。仮の庵も、ややふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり。おのづから、ことのたよりに都を聞けば、この山に籠り居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。

【訳】
だいたい、ここに住み始めた頃は、ほんの少しの間と思っていたが、気が付くともう五年も住んでいる。仮の家も故郷の様な感じとなり、軒には落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えている。たまたま、都の状況について話を聞く機会があったのだが、私がこの山で出家生活をしてから後に、身分の高い方が大勢亡くなったと聞いた。その他の人々も数えたなら、どれほどの人々が亡くなったのかは、全く見当もつかない。

【わがまま解釈】
今回は、比較的、易しい文章だろうか。
学生時代に習った重要古語が多いせいか、僕ですら、何となく意味が分かる。
まー、本当に何となくだけど。

長明さん、ここに住み始めた頃は、ほんの少しの間と思っていた。
そもそも、長明さん、方丈の庵のメリットして、すぐに引っ越しができるという点を挙げていた。
嫌なことがあったら、すぐに引っ越しできると。
つまり、嫌なことがあることが前提で、方丈の庵を建てた。

折々のたがい目に翻弄された長明さん。
せめて家だけは、好きなところに建てたいと思っていたに違いない。
これ以上、煩わしいことに悩まされたくなかったのだと思う。

長明さん、西行を慕っていたらしい。
若い頃は、西行を追って旅をしたと聞く。
そして、この西行は、出家後に各地を放浪したことで有名だった。
もしかしたら、長明さん、西行のように各地を放浪することを思っていたかもしれない。
今は、日野に住んでいるけど、日野が気に入らなければ、別の新天地を目指す。
その結果、西行のように各地を放浪することになっても、それもまた良しと思っていたのではないか。
その意味でも、方丈の庵は、都合が良かったのかもしれない。

大原での出家生活の記録は、方丈記には書かれていない。
ムダに五年の月日が過ぎただけとある。
源家長日記では、源家長が大原で長明さんに会った時、もしかしたら見かけただけかもしれないけど、「これがあの長明さんか、というぐらいに痩せていた」とある。

それに対して、日野での出家生活は、非常に満足を感じていた。
他に行く当てもなかったかもしれない。
あるいは、60歳を過ぎた長明さんにとっては、もはや移動することは、肉体的にも精神的にもきつかったかもしれない。
いずれにしても、最終的には、日野が終の棲家となる。

日野での生活も、仮の家だと思っていた。
ところが、五年も住んでいる。
「軒には落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えている」という部分が、五年の年月を感じさせる。
そして、いつの間にか、故郷のようにも感じられたとある。
それは、住めば都、住めば故郷だったのかもしれない。

話がそれるけど、最近、田舎暮らしがブームになっている。
僕なんかも、田舎暮らしに憧れる部分はある。
田舎は良いなーって思う。
晴耕雨読みたいな生活も良いなーって思う。

今、僕も田舎に住んでいる。
前回も書いたけど、初夏にはホタルが舞い、ふつーに鹿、猪、タヌキを見る。
で、子どもを連れて散歩をする。
で、少し仲の良くなった農家がいて、子どもを連れて遊びに行くと、買い物袋いっぱいに野菜をくれたりもする。

お米は、たまたま知り合った農家から、安い値段で買っている。
精米をしていないので、その分だけ費用は掛かる。
それでも、トータルで見ればかなり安い。

まー、これなんかも子どものおかげ。
子どもがいなければ、全くそうはならないと思う。

それで、少なくとも、僕は、田舎暮らしの恩恵を受けていると思っている。
少なくとも、田舎暮らしで、嫌な思いをしたという印象はない。

ところが、この田舎暮らし、トラブルが多いことでも有名だったりする。
ふつーに、そういう話を聞いたこともある。
実際に田舎暮らしをしてみると、全然聞いていた話と違うということがあるんだとか。

・田舎ほど人間関係のしがらみで苦しむ。
・田舎独特の文化・風習に苦しむ。
・田舎ほど余計な出費が多い。
・とにかく不便

一応ね、移住者も、それなりにリサーチはしていると思う。
ところが、実際に住んでみると、ずれを感じるらしい。
田舎は、空気がおいしくて、水もおいしくて、食べ物もおいしくて、人が温かいなんて言われたりする。
でも、これぐらいのこと、たいていどこの田舎も言うからね。

たまに、テレビや雑誌で、若者の移住者の成功体験が載っていたりする。
それで、都会から移住してきた若者が地元の方に囲まれて賑やかに食事をしている場面が出ていたりする。
正直、これはチャンピオンデータ。
実際に、そんなことはないはずだから。
そんなのは、幻影にすぎない。

そんなことを思いながら、長明さんの日野での生活を見てみる。
日野での生活を故郷のようにも思えるとある。
いやね、移住した先で、こう思えるって凄いと思うよ。
長明さんの場合、移住と言っても、そこまで遠くに移住したわけではないけど。
ただ、日野長親の援助を受けたり、近くに山守の親子がいたり、さらには日野家の氏寺である法界寺もあったけど、その辺の地域の人との関係も良好だったように思う。

最後に、長明さん、方丈の庵を建ててから、多くの身分の高い方が亡くなったと書いている。
前回、月を見ながら故人を偲ぶという話があった。
長明さん、月を見ながら無常を感じていたのかもしれない。
それで、長明さんが方丈の庵を建てたあたりから方丈記完成のまでの間に、亡くなった人物を見て見ると次のようになる。
一応書くと、日野に移ったのが1208年頃、方丈記が完成したのが1212年頃となる。

◆九条兼実
1207年、51歳で死去。最高官位、関白。九条兼実が書いた玉葉は、当時の歴史を知る上で需要な書物。
建久七年の政変により失脚し、その後は浄土教を信仰したという。

◆法然
1212年、78歳で死去。浄土宗の開祖。
その教えは鴨長明、日野長親、九条兼実など多くの人物に影響を与えた。
承元の法難では、後鳥羽上皇によって京都での活動が禁止され、法然自身は讃岐国(今の香川県)に島流しになる。

◆九条良経
1206年、38歳で死去。最高官位、太政大臣。九条兼実の子。
和歌、書道に優れ、鴨長明とともに和歌所寄人に選ばれる。小倉百人一首にも選ばれている。

◆藤原隆信
1205年、死去。最高官位、正四位下・左京権大夫。歌人、画家として活躍。
鴨長明とともに和歌所寄人に選ばれる。晩年は浄土宗を信仰する。

◆隆暁法印
1206年、62歳で死去。仁和寺の僧侶(住職か?)
真言宗の総本山・東寺の副住職もしていたと伝わる。
方丈記で、唯一、固有名詞として登場する人物。

今回はこの辺で。

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