方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。

【原文】
その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。

【訳】
その頃、何かの用事のついでで、摂津の国(今の兵庫県)の新しい都に行ってみた。見ると、土地は狭くて東西南北の区画もできていない。北側には高い山が迫っており、南側は海が迫っている。波音がうるさく潮風もひどい。内裏は山の中にあるため、あの木の丸殿もこのような感じだったのかなあと思うと、この新しい内裏も味わい深いところもあると感じる。毎日のように解体し、川幅も狭くなるぐらいに運び流した家はどこに建てられているのだろうか。まだ、空き地が多く、再建された家は少ない。旧都はすでに荒廃し、新都はいまだ完成していない。

【わがまま解釈】
今回は、長明さんが福原京を見てきたというお話。
それにしても、長明さん、よく福原まで行ったな―って、僕は感心するけど。
だって、京都から神戸っておおよそ60キロあるのね。
60キロ歩くって、けっこうきついよ。
そりゃー、何日かかけて行っただろうけど。

でも、長明さんって、歩き回るのが好きなのね。
歩き回るというか、旅をするというか。
若い頃は、伊勢に行っている。
60歳前の頃には、鎌倉に行って、源実朝と面会している。
方丈記の後半を読むと、日々、色々と散歩をしたことも書いてある。

ところで、なんで福原京を見てみたいと思ったのか。
方丈記には、「何かの用事のついで」とある。
もしかしたら、朝廷のお偉いさんから、何か頼まれごとがあったのかもしれない。
あるいは、平安京を守護する下鴨神社の者として、福原京がどういうところか気になったのかもしれない。
まー、単なる好奇心かもしれないけど。
ていうか、間違いなく好奇心はあったと思う。

で、実際に、福原京に行ってみた。
で、まず、その土地の狭さに驚いている。
もしかしたら、平安京ほどではなくても、それに近いぐらいの都を想像していたのかもしれない。
でも、実際には、その狭い所が福原京だった。
しかも、区画整理が全くできていない。

まー、でもね、長明さん、方丈の庵とかいう四畳半程度の狭い家に住んで、「この家は快適だ」って言う人なわけ。
だから、本当は、言えた義理じゃないのかもしれない。
もしかしたらコンパクトシティーを目指していたのかもしれないし。
テキトーに書いたけど。。。

さらに言うなら、前回も書いたけど、慶滋保胤の池亭記によると、平安京は右京については荒廃していたとある。
人も住んでなくて、ほとんど機能していなかったらしい。
ということはさ、別に、平安京の半分ぐらいの土地の広さがあれば、十分やっていけたんじゃない?

で、方丈記には、福原京について、

・北側は高い山が迫っていて、南側は海が迫っている。
・波音がうるさく潮風もひどい。

と書いてある。

それで、神戸を知っている人なら分かるだろうけど、神戸ってけっこう平地が少ないのね。
大阪と隣接する尼崎、西宮、芦屋あたりは、まだ広い。
ところが、神戸まで来ると、だいぶ狭い。
港町神戸なんて言うけど、ほとんど山(六甲山地)だから。

しかも、南側はすぐ海。
つまり、山と海に挟まれて、平地の部分がすごく少ない。
まー、天然の要害と言えなくもないけど。

で、波音がうるさく潮風もひどいらしい。
このあたりは、平安京に暮らしていた長明さんには、理解できなかったのかもしれない。
波音も潮風も、慣れたらどうってことないって。

次に、内裏は山の中にあるんだけど、それを木の丸殿と重ね合わせて見ている。
ただ、木の丸殿が何かが分からない。
で、調べてみたら「木で作った粗末な殿舎」とあった。
いや、確かにそうなんだけど、これは違うと思って、次を見たら「斉明天皇の行宮」とあった。

行宮というのは、仮の宮殿のこと。
つまり、斉明天皇が造った仮の宮殿となる。
斉明天皇とは誰なのか?
なぜ仮の宮殿を造ったのか?
うーん、かえって疑問を増やしてしまった。

まず、斉明天皇だけど、この方、女性。
ちなみに、令和天皇で126代だそうだけど、女性の天皇は8人しかいない。
しかも、斉明天皇、二回、天皇になっている。
うーん、昔は、二回、天皇になることができたのかー。

一回目の時は、皇極天皇といった。
そして、皇極天皇の時代に乙巳の変が起こる。
僕が学生の頃は、大化の改新と習ったけど。
で、この乙巳の変の数日後に、皇極天皇は、天皇の地位を弟だった孝徳天皇に譲る。

そして、孝徳天皇が亡くなると、再び、天皇の位についている。
その二回目の時が、斉明天皇となる。
ちなみに、斉明天皇の子どもには、天武天皇、天智天皇がいる。
むしろ、天皇としては、こっちの方が知られているか。

それで、斉明天皇の時代、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済と三国時代になっていて、しかも、当時の大国・唐も朝鮮半島を狙っていた。
で、斉明天皇は、百済救援のために、九州北部に軍勢を整えていた。
その時の、仮の都が朝倉宮(今の福岡県)で、仮の宮殿が木の丸殿となるらしい。

ところが、斉明天皇が亡くなり、後を継いだ天智天皇が唐・新羅の連合軍と戦うんだけど、これが大敗北をしてしまう。
日本史の教科書だと、白村江の戦いと書いてあったか。

長明さん、この時の、木の丸殿と福原京の内裏を重ねて見ているわけ。
ていうか、木の丸殿の話をするところなどは、長明さん、教養はあったんでしょうね。
もしかしたら、下鴨神社の者として、あるいは鴨一族として、これぐらいは常識だったのかもしれないけど。。。

それで、長明さん、福原京を見て、毎日のように平安京の家は解体され、それこそ川の水面にぎっしりと解体した家を流しているのに、一体どこに家が建てられているのかと書いている。
まだまだ空き地が多く、新しく建った家は少ないらしい。
ってあるけど、これって完全に工事が滞っているよね。
ていうか、いきなりの遷都だから、こうなるのも無理はないか。

しかも、平安京は荒廃し、福原京は完成していないってあるけど、まーそうなるだろうね。
もう明らかな計画ミスだよ。
しかも、通りもきちんと整備されていないんだから、解体した家を運べるわけもないし。
あーもう、無理、無理。。。

それで、福原京の建設が進まず、時間だけが過ぎていくんだけど、これが、源氏に反撃のチャンスを与えてしまう。
福原遷都から間もなく、源頼朝が、石橋山で挙兵をする。
この戦いは、すぐに平家が兵を動かし鎮圧する。
ところが、再び、源頼朝が挙兵したため、平清盛は平維盛(清盛の孫)を総大将に軍勢を差し向ける。
で、これが、戦わずして敗れるという予想外の展開になる。

福原京は完成するのか、平家一門はどうなるのかが気になるところ。。。

今回はこの辺で。

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