方丈記に、似た運命
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されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、
【原文】
されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京にうつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。
【訳】
とは言うものの、すでに福原遷都は決定されたことであり、今さらあーだこーだ言っても何かが始まるわけでもなく、結局、天皇をはじめ大臣・公卿たちは次々と福原へと遷られた。そうなると、朝廷に仕える人たちも自分たちだけが京都に残るわけにもいかなかった。出世を願い、上司に目を掛けられることを願う者たちは、一日でも早く福原の都に移動しようと努めた。その一方で、遷都の流れに取り残された人々は、残念ではあるがそのまま京都に留まった。
【わがまま解釈】
前回に続いて、福原遷都のお話。
前回は、嵯峨天皇の頃から、何百年の間ずーっと都だった平安京から、突然、福原へ都が変わるというお話だった。
そして、あまりにも突然のことに、みんなは不安に思ったということが書かれてあった。
それで、今回は、福原遷都が決定してから、どうなったかというお話となる。
福原遷都については、みんな色々と言いたいことはあったらしい。
しかし、最終的には、天皇をはじめ、大臣・公卿などが、福原へ行くことになる。
で、そうなると、上が移動する以上は、下の者もついていかざるを得ない。
下の者たちだけが、平安京に残ることもできないわけ。
で、結局、出世を願う者、上司に評価されたい者は、福原へと移動を開始した。
また、逆に、福原遷都の流れに乗り遅れた者は、そのまま平安京に残ることになる。
ところで、福原遷都は、一般的に、平清盛の鶴の一声で決まったと言われている。
僕も、そう習った。
でも、当時、朝廷のトップだった後白河法皇、高倉上皇、その他の有力者たちは何も意見をしなかったんだろうか。
特に、この時期、後白河法皇と平清盛は犬猿の仲だったのに。
後白河法皇としても、表立って反対できなかったのだろうか。。。
ただ、前回も書いたけど、福原遷都については、「福原に行く」としか伝えられていなかった。
だとしたら、後白河法皇としても、「清盛がそう言うなら、ちょっと行ってみるか」ぐらいにしか思っていなかったのかもしれない。
テキトーに書くけど、「ついでに有馬温泉にでも入りませんか」とか言われて、「うん、いいねー」みたいな感じで。
ちなみに、過去には、後白河法皇と平清盛は、福原、厳島などを仲良く訪問している。
ところで、福原遷都については、他の資料にも記録が残っている。
例えば、玉葉の場合。
6月2日。晴れ。
午前6時頃、平清盛が福原へ遷った。
後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇も同じく福原へお遷りになられた。
京都以外の地に都を設けることは過去にはあったが、少なくとも約400年ほどは例がない。
本当に他に例を見ない異常な出来事である。
そして、その理由を知る者はいない。
この玉葉は、九条兼実が書いた書物。
九条兼実は、この時点では右大臣だったけど、最終的に関白、太政大臣と位を上り詰めた人物。
しかも、有識故実に詳しく、優秀な人物だったとも伝わる。
このような人物であるので、当然、九条兼実は、福原遷都を知っていたと思っていた。
ところが、どうも知らされていなかったらしいのね。
逆に言うと、どれほど福原遷都が極秘のことだったのかが分かる。
それで、福原遷都のことを聞いて、九条兼実は「私も参りましょうか」と尋ねる。
ところが、それに対する清盛の返事が、
「別に来なくていいよー」
とのことだった。
なぜ、平清盛は、九条兼実に対して「来なくていい」と伝えたのか。
このあたりは、また別の機会にも書くつもりだけど、九条兼実の屋敷を用意していなかったから。
逆に言えば、「来てもいいけど、泊まるところないよ」ってとこ。
実は、福原京は、本当に何の準備もされていなかった。
つまり、有力な公卿だとか貴族を呼びたくても、家がないわけ。
うーん、それぐらい準備しておけよって思うけど。。。
それどころか、天皇や上皇の宿泊所もなかった。
仕方なく仮の宿舎を用意したぐらいだから。
次に、平家物語の福原遷都を読んでみる。
1180年6月3日、安徳天皇が福原へ行かれるという話があった。
日頃からから遷都があるかもしれないと噂されていたが、まさか今日・明日の話ではないと思っていたので、都中が大騒ぎとなってしまった。
しかも、6月3日とのことだったのが、1日早まって6月2日となった。
安徳天皇はまだ3歳だったので、言われるがまま福原へと移られた。
6月3日、福原へ入られた。
中納言である平頼盛の屋敷が、安徳天皇の皇居となった。
6月4日、平頼盛は、自分の屋敷を皇居としたことで、恩賞として正二位の位階をいただいた。
その結果、九条兼実の息子・九条良通よりも、位階が上となった。
摂政の御子息が、その他の者たちに位階を越されるということは、初めてだそうだ。
平家物語だと、具体的に書かれてある感じがする。
ただ、今回の遷都が突然だったことは、平家物語でも同じ。
それで、方丈記、玉葉、平家物語の三作品で、福原遷都に対してどのような感想を抱いたかを見てみると、次のような感じとなる。
【方丈記】
人々は、今回の遷都に不安を感じ、大いに心配した。
【玉葉】
本当に他に例を見ない異常な出来事である。
【平家物語】
平家の悪行の極みである。
総じて、福原遷都は、人々に受け入れられていないことが分かる。
特に、平家物語。
「平家の悪行の極み」って、かなりきつい表現。
平家物語は、平清盛の評価を低く設定しているので、こういう書き方になるのかもしれないけど。
ちなみに、当時の他の作品だと、平清盛の評価は高かったり、好意的に書かれてあるものもある。
ここからは余談。
この福原京、都だったかどうかは疑わしい部分もあるんだとか。
「都だったかどうか」というよりは、「都として定義していいのか」となるんだろうけど。
この福原京、半年だけの幻の都だった。
しかも、ほとんど都として機能していない。
ところが、色々と調べてみたら、福原京よりもさらに幻の都を見つけた。
それは「和田京」。
ただ、土地が狭くて、計画段階で挫折したらしい。
それで、もう少し広い場所を探して、昆陽野(兵庫県伊丹市)、播磨国印南野(兵庫県加古川市)などが候補地として選ばれるも、これらもうやむやの内に消えてしまう。
そして、最終的に、福原京が都となる。
ところで、この福原、和田とは隣り合わせの地域だった。
ということは、やっぱりここも土地が狭いわけ。
和田が駄目なら、福原も駄目だと思うんだけどなー。。。
今回はこの辺で。
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