方丈記に、似た運命

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本能寺の変~戦国最大の謎

今回のテーマは、本能寺の変。

本能寺の変。
それは、戦国史上最大の謎。
一応書くと、本能寺の変というのは、明智光秀が主君であった織田信長に対して謀反を起こして、信長を殺した事件。

つまり、織田信長と明智光秀の関係は、

主君:織田信長
家臣:明智光秀

となる。
で、なぜ、明智光秀は、織田信長を倒したのか。
まー、正直、分からない。
当然、答えはない。

で、あえて、その難問に挑戦してみる。
まー、歴史のロマンですよ。

それで、一応書くと、本能寺の変には、色んな学説がある。
ちょっとウィキペディアをみてみたけど、単純に○○説を数えただけでも57あった。
うーん、多過ぎる。
専門家ですらこんな感じなんだから、素人が分かるわけがない。

で、自分なりに、次の点から、本能寺の変について考えてみた。

◆謀反を起こそうと思った理由・目的
◆謀反を決断したのはいつか
◆謀反の後、何を思ったか

◆謀反を起こそうと思った理由・目的
そもそも明智光秀が、なぜ、主君・織田信長を殺そうと思ったのか。
いきなりこの問いに答えるのは難しい。
ただ、もしかしたら、信長の家臣たちは、一度は、信長に殺意を覚えたことがあったのではないか。
テキトーに書いたけど。

柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、徳川家康。
これら以外にも、織田家には、譜代も外様も多くの家臣たちがいた。
で、みんな、腹の中では「やっぱ信長様にはついていけねー」と思ったことがあったのではないか。
もっと言えば、「あー、信長様、ポックリ死んでくれないかなー」とか「もー誰か、信長様を殺してくれ」って思った人もいると思うのね。

つまり、みんなが、口に出さないまでも、腹の探り合いをしていた。
みんなが、織田信長の死を願っていた。
で、謀反を起こしたのが、たまたま明智光秀だったというだけ。
そして、謀反を起こす種は、みんなそれぞれにあったのかもしれない。

では、光秀にとって、謀反を起こす種となったのが何かだけど、正直、分からない。
まー、これが分かれば苦労はしない。
ただ、僕の中では、佐久間信盛の追放事件は、影響があったような気がしている。

佐久間信盛。
この方、織田家中でトップの家臣だった。
ところが、ある日突然、信長から「働きぶりが悪い」と怒られる。
そして、領土を没収されてしまい、高野山へ追放される。
それで、この事件は、他の家臣たちも意識したと思うけど、光秀も光秀なりに思うところがあったかもしれない。

明智光秀は、人生の前半の行動が良く分かっていない。
ただ、知られているところでは、朝倉義景、足利義昭に仕えており、最後に、織田信長の家臣になったとか。
織田信長の家臣になったのが1571年あたり。
そして、本能寺の変が起きるのが1582年。

それで、光秀、わずか10年ほどで、織田家筆頭の家臣に上りつめている。
しかも、1571年ということは、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益といった家臣たちと比べても、仕えた時期がはるかに遅い。
にもかかわらず、最終的には、彼らと肩を並べる地位に就いている。

当時、織田家は、軍団制を採用していた。
もちろん、当時、軍団制というフレーズ、認識があったかは分からないけど。
一応書くと、こんな感じ。

    家臣        攻略地方  攻略大名
―――――――――――――――――――――――――――
 柴田勝家(1522年)  北陸方面  対上杉家
 滝川一益(1525年)  関東方面  対北条家
 羽柴秀吉(1537年)  中国方面  対毛利家
 明智光秀(1516年)  近畿地方  朝廷対策
 丹羽長秀(1535年)  四国地方  対長宗我部家
 織田信長(1534年)  ―     ―

※カッコ内は生年月日。

今風に言えば、中途入社にもかかわらず、部門長になったような感じだろうか。
信長は、光秀のことを相当評価していたと思う。
ただ、これを見ると分かるけど、信長の家臣で、信長の近くにいたのは光秀だけ。
つまり、光秀だけが信長を倒せるチャンスがあったのかもしれない。

また、光秀は、荒木村重、松永久秀など、後から信長に仕えたものの、謀反を起こして自分の城に立てこもった結果、ほとんどが倒された事実を思い出したかもしれない。
つまり、謀反を成功させるには、城に立てこもるんじゃなくて、信長の首を取らないといけないと確信していたんじゃないだろうか。

◆謀反を決断したのはいつか
明智光秀が、謀反を決断したのはいつか。
これもね、正直、分からない。
ただ、光秀の中には、もともと謀反の種はあったと思っている。
で、本能寺の変の少し前に、光秀は、信長から、軍勢を率いて毛利攻めをするようにと指示を受けている。
この瞬間に、信長を討つ機会があればと思ったかもしれない。
もしかしたら、武田征伐の際にも、機会があれば信長を討つつもりだったかもしれないけど。

ただ、考えてみると、信長が本能寺にいるかどうかは分からない。
実際、信長は、本能寺に泊まることはほとんどなかったとか。
しかも、信長だけでなく、信忠も討ち取っておかないとあとが厄介となる。
ということは、信忠の居場所も掴んでおかないといけない。

そう考えると、信長暗殺を最終的に決断したのは、本能寺の変の前日ぐらいかもしれない。

◆謀反の後、何を思ったか
本能寺の変は、見事に成功する。
ただ、僕の中では、明智光秀が謀反を成功した後、何をしたのかがよく分からない。
もっと言えば、謀反を起こす前に、謀反の後のことを考えなかったのかと思う。
これについては、謀反が成功するとは限らない以上は、謀反の後のことまで、頭が回らなかったかもしれない。
あるいは、光秀自身が織田家では外様であるため、あらかじめ、味方に誘える武将がいなかったというのもあるかもしれない。

そう考えると、本能寺の変の後、味方が集まらなかったのも何となく分かる気がする。
本能寺の変は成功しても、その後、光秀が短命政権で終わることは、必然だったのかもしれない。

僕は、光秀が主君・織田信長を討ったことについて、光秀自身は「自分は正しいことをした」と思ったと思う。
少なくとも、間違ったことはしていないと思ったに違いない。
ところが、その後、思ったほど見方が集まらず、むしろ、羽柴秀吉が驚異的なスピードで、光秀に対して信長の弔い合戦をしかけてきたことで、光秀の謀反は完全に失敗に終わってしまう。
足利義昭・織田信長と、将軍、天下人に仕えたけど、結局、二人とも見限ってしまったことに、光秀も何か思うところはあったように思う。

今回はこの辺で。

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