方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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発心集~貧男、差図を好む事②

前回からの続き。

近頃、あるところに、歳を取って、貧しくて、どうしようもない奴がいた。
一応、官位はあったが、仕事に就くことができない。
だからといって、古い人間なので、下品なことは思うこともない。
ふつーの生活をあきらめることもできなかった。
だから、思い切って出家するということもしなかった。
それで、ふだんは、決まった家もなく、古びたお堂で生活をしていた。

この冒頭の部分。
これは、長明さん自身のことだろうと思う。
ていうか、それ以外に思い浮かばない。

古びたお堂で生活していたとある。
これなんかは、もしかしたら、法界寺のことではないかと思ったりもする。
法界寺は、日野氏の氏寺。
長明さんが、日野に方丈の庵を建てたのも、日野長親の協力があってこそだった。
方丈の庵と法界寺は、目と鼻の先。
分からないけど、法界寺を訪問することもあったのではないか。

方丈記には、長明さん、山守に住む小さい子どもと散策をしたと書いている。
法界寺を訪れることもあったのではないか。
また、この山守、あるいは、この小さい子は、日野長親から、「長明さんの面倒を見てやって欲しい」とふだんから言われていたのではないか。
このあたり、推測するしかないけど、これもまた古典のロマン。

それで、長明さん、この貧男の紙に描いた絵の素晴らしさを書いている。

・良質の材料もいらない。
・屋根を磨く必要もない。
・水害にも遭わない。
・火事にも遭わない。
・楽しむだけなら、これで十分。

と、まー、色々とこの紙の家の素晴らしさを書いている。

しかも、このことを強調するために、三つの話を書いている。

龍樹菩薩
性空上人
琴の師匠

いずれも、心が満たされることの大切さを説いている。
逆に、心が満たされるのであれば、形あるものは重要ではない。

それで、この中から性空上人をピックアップして、少し雑談。

話の中では、「書写の聖者」と書かれてあった。
性空上人は、書写山圓教寺を建てた人物。
で、この書写山圓教寺というのは、西の比叡山と言われるほどの格式高いお寺なんだとか。
長明さんの時代で言うと、後白河法皇や平清盛も参拝している。

ちなみに、僕も、参拝した。
ちゃんと自分の足で登っている。
途中、瀬戸内海が一望できるところがあって、なかなか良い景色だった。
本堂では、ごろんと寝っ転がったりもした。

それで、実は、書写山だけど、慶滋保胤も登っているんだとか。
なんと、長明さんのご先祖様も登っていたんですね。
それどころか、性空上人と慶滋保胤は、ふつーに交流があったらしい。
慶滋保胤は、性空上人の弟子だったという記録もある。

また、性空上人が、書写山圓教寺を建てたことが理由かは分からないけど、書写山圓教寺と同じ姫路市内に八徳山八葉寺というお寺があって、このお寺を再興したのが慶滋保胤だという。
長明さん、こういう記録も知っていたのではないだろうか。

ちなみに、戦国時代、織田信長の配下だった頃の羽柴秀吉が、書写山圓教寺に陣を敷いたことがあるらしい。
で、戦いが終わると、お寺の銅像を勝手に持って帰ってしまったそう。
いやー、よくないぞ、秀吉君。

あと一つだけ、余談を書きます。
播州、特に、姫路周辺は、あまり柄が良いところではない。
しかも、信仰とはほとんど無縁の地域だと思う。
にもかかわらず、このあたり、立派な寺院も多い。
また、最近だと、すでに亡くなったけど、山田恵諦(天台座主)、宮崎奕保(曹洞宗管長)と二人の宗教家を輩出している。
僕の中では、ちょっと変な感じがする。

すみません。
話に戻ります。

長明さん、貧男が紙に家を描いて楽しむことを、いいねと思っている。
すごくいいと称賛している。
途中までは。
但し、途中から、急に話の雲行きがおかしくなる。

急に、「この世の楽しみだって、いつかは尽きてしまう」と書いている。
しかも、そのことを説明するために、昔の故事を持ち出してきている。

長明さん、どうしたんだろう?

つまらない想像ばかりして、人生を終わらせるな。
修行に励め。
修行をして、極楽浄土の立派な建物を望め。
結局は、あの男の紙の家も、はかない楽しみにすぎない。

なんか、よく分からないけど、話が変な方向に行ってない?
単に、僕の読解力のなさか?
これねー、どういうことなんだろう。。。
てっきり、貧男の紙の家の素晴らしさを説いて、終わるのかと思ったら全く違っていた。

でも、この展開、何かに似ている。
そう、方丈記。

方丈記でも、自分は、家に対する執着心を捨てて、方丈の庵の素晴らしさを説いていた。
家なんて小さくても全く問題なし。
自分はもう家にはこだわっていませんよと。

ところが、最後の最後で、

「それって、やっぱり、執着心、捨てきれてないよね?」

という展開だった。

今回のお話もそうではないのか。
貧男が紙に家を書いて、慎ましく心を楽しませる。
そのこと自体は問題ないと思う。
ただ、結局、その楽しみだってこの世での楽しみだと思うと、はかない楽しみにすぎないとなるのだろう。

仏道修行をして、心の中に極楽浄土の立派な建物を築けということなのか?
それとも、本当に、あの世で立派な建物を築くために、今は仏道修行に専念しろ、ということなのか?
もー、このあたり、僕には分からない。
まー、僕も、凡人だ。

長明さんの話って、最後に急に話のトーンが変わったりとか、ぐるぐる回されるというか、どこにも着地させてもらえないといった感じがするけど、これが長明さんさんの作品の良さなのだろう。

今回はこの辺で。

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