方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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いかが奴婢とするとならば、もし、なすべき事あれば、すなはち、

【原文】
いかが奴婢とするとならば、もし、なすべき事あれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりやすし。もし、歩くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬、鞍、牛、車と、心をなやますにはしかず。
今、一身を分かちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗り物、よく我が心にかなへり。身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたびすぐさず。物憂しとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、つねに歩き、つねにはたらくは、養生なるべし。なんぞ、いたづらに休みをらん。人を悩ます、罪業なり。いかが、他の力をかるべき。

【訳】
どのようにして自分を使用人にするかというと、何かすべきことがあれば、つまり、自分の体を使うのである。疲れる気がしないでもないが、使用人を雇ってその者を気にかけ、それなりの対応をする疲れと比べたら、大したことはないだろう。もし、歩かなければならないときは、自ら歩けばいいだけだ。足がだるいだろうが、馬、鞍、牛、車と乗り物のことをあれこれ考えるめんどくささを思えば、大したことではないだろう。

このように自分の体を二つに分けて、二つの用事をさせればいいのだ。手が使用人で、足が乗り物といった具合に。いずれも自分の体であるから、自分の意のままに動かすことができる。自分の体のことは自分の体がよく知っているわけであるから、しんどい時は休ませるし、元気な時は動かせる。動かせるといっても、度を越して無理に動かせるわけではない。もし、体がだるく気分がのらない時でも、いちいち悩まなくてもよい。

まめに歩き、まめに体を動かすことは、体にも良いことである。そうであるなら、意味もなく体を休ませるのは、あまり良いことではないだろう。これこそが、人を悩ますもとなのだ。どうして人の力を借りることができるだろうか。

【わがまま解釈】
今回も、訳すのが難しかった。
いつも思うけど、古典って、作者の意図をくみ取るのが本当に大変。
単語単体の意味を押さえつつ、文章としても作者の意図をくみ取らないといけない。
はー、もっと、古典を上手に読みてー。

前回、自分自身を使用人にすればいいというお話があった。
自分が主人で、また、自分が使用人であると。
実は、前回、そこまでいけてなかったけど。
今、見直してみて、「あっ、この話忘れている」と思いながら、書いている。
ペネロペ風に言えば、「私って、うっかりやさん」といった感じ。

ごめんなさい。
テキトーなこと書いて。

で、どうやって、自分自身を使用人にするかについて書いてある。
それは、何かすることがあった時に、自分の体を使うとある。
平たく言えば、「自分のことは、自分でする」ということ。
えっ、これって当たり前だと思うけど。。。

「たゆからずしもあらねど」
こんな表現、初めて見た。
「たゆ」は「たゆし」で、疲れて力が入らない、だるいといった意味。
で、たゆからずは、疲れることがないという意味

で、あらねどは、「・・・ではないけれど」という意味。

つまり、疲れることがないというわけではない、という意味。
「しんどいといえばしんどい」といった感じ。

で、話が脱線するんだけど、「あらねど」の「有り」。
ラ行変格活用の動詞らしい。
しかも、このラ行変格活用の動詞は、「有り」、「をり」、「はべり」、「いまそかり」の四つしかないとあった。

僕は、急に思い出したことがあった。
それが、「有り」、「をり」、「はべり」、「いまそかり」の四つ。

そう、古典の重要項目で、なぜか、いまだにこれだけ覚えていた。
ちなみに、「はべり」は分かるけど、それ以外は全く分からない。
そもそも、ラ行変格活用って言われても、何のことだかさっぱり分からない。
まさか、こんなところで、「有り」、「をり」、「はべり」、「いまそかり」に出会うとは思わなかった。

すみません。
話を戻します。

確かに、全てを自分でしようとすれば、しんどい。
それでも、使用人を雇って、使用人に対する対応の煩わしさを思うと、自分のことは自分でした方がトータルとして楽ではないかと思うわけ。
主人の側は主人の側で、やっぱり大変なのね。
自分は主人だから、従者のことはほっとけともいかないわけ。

歩かないといけない時は、歩けばいい。
長明さんは、そう書く。
確かに足はだるくなる。
でも、やれ馬だの、やれ鞍だの、その他にも牛や車とか、色々と考える必要はない。

思えば、平安時代の貴族って、歩いているイメージがない。
いつも牛車に乗っているイメージ。
平家や源氏だと馬に乗っているイメージもあるけど。
Wikipedhiaを見ると、

「日本の平安時代では貴族の一般的な乗り物であった。移動のための機能性よりも使用者の権威を示すことが優先され、重厚な造りや華やかな装飾性が求められた」

と書かれてある。

平安時代は、家だけでなく牛車も、富や権力の象徴だったのかもしれない。
ただ、急ぐ時は、馬に乗ることもあったとらしい。
あと、小ネタになるけど、この牛車、道路交通法上は「軽車両」となるらしい。
少なくとも、僕は、今まで生きてきて牛車が道を走っているところを見たことがないけど。
まー、馬はあるけど。

で、長明さん、手が使用人、足が乗り物といった具合に、自分の体を二つに分ける。
そして、用事をさせれば問題はないと書いている。
自分の体なので、自分の意のままに動かすことができる。
自分の体なので、今、自分の体がどういう状況かもすぐに分かる。
しかし、だからといって無理に体を動かせる必要はないとある。
体が疲れているときは休めばいいし、体が元気な時は動かせばいいというだけの話だと。

そして、次の文章。
「物憂しとても、心を動かす事なし」とある。
とても短い文章だけど、大事なことを書いていると思った。

物憂しという表現、これは「もの」と「うし」になる。
「もの」は、なんとなく、ちょっと、といった感じ。
今でも、もの淋しい、もの悲しいと言ったりするけど、その「もの」。
「うし」は、憂鬱の憂。
気が進まないとか、気分が乗らないといった感じ。
つまり、気分が乗らず、なんかだるい感じがしても、気にしなくて良いと言うことだろう。
これ、心の健康のために、とても大事なことだと思う。

さらに最後、歩くことについて。
貴族社会という角度から見た場合、長明さん、本当によく歩いたと思う。
歩くことは体にいい。
逆に、だらだらして体を動かさないのは、体には悪い。
また、自分で歩いていけば、牛や馬、鞍とかを気にしなくてもすむ。

やはり、歩いて損をすることはない。

今でも、ちょっと近所に出るだけでも、すぐに車で行こうとする。
歩こうとしない。
本当は、もっと時間をかけて出歩いた方がいいのかもしれない。

今回はこの辺で。

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