方丈記に、似た運命

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実は、間違っていた日本史④

えーっと、今回は、年号について。
最近・・・て言うか、だいぶ前だけど、今と昔では日本史の中身が、ちょこちょこ違うという話を聞いた。
中でも驚いたのが、鎌倉幕府の成立年。

いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府

ってうやつ。


当然、鎌倉幕府の成立は1192年だと思っていた。

ちなみに、ガッツ石松は、「よいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えていたため、4192年だと思っていた。
あっ、鎌倉幕府って昔だから。
ガッツさん、それだと未来になっちゃいますよ(笑)
ちょっと勘違いしただけですよね。。。

で、話を戻して、今だと、鎌倉幕府の成立年が何年になったかと言うと・・・

①1180年
②1183年
③1184年
④1185年
⑤1192年(従来説)
⑥1221年

となっているらしい。
これ、この中のどれかが鎌倉幕府の成立年というのではない。
むしろ逆。
この中のどれもが鎌倉幕府の成立年として考えられているんだとか。

なんかね、こうなると、下手な鉄砲も数うちゃ当たるってやつじゃない?
それなら僕だって、テキトーに言えるよ。
それでも、ガッツさんの4192年は、なしだと思うけど。。。

で、ここからは、それぞれの説について見ていきます。

①1180年
この年、源頼朝は、平家打倒のために挙兵をしている。
ただ、挙兵した戦いでは、源頼朝は、惨敗をしている。
しかし、その後、勢力を盛り返すと、あっという間に東国を勢力下においた。

それで、源頼朝は鎌倉に入ると、将軍の住まいとなる大倉御所を完成させる。
また、侍所という部署を設置する。
侍所というのは、軍事や警察のお仕事を担当する部署。
だから、武家政権にとっては、けっこう大事な部署なわけ。

つまり、1180年説は、鎌倉幕府の種をまいた年と考えて、この年を鎌倉幕府の成立年と考える説。

②1183年
1183年と言えば、源平の戦いの真っ最中だった頃。
平家物語だと、このあたりはハイライトの一つとなる。

平家一門は、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗をしてしまい、都落ちをしてしまう。
そして、このまま滅亡するかと思いきや、猛反撃に転じると、水島と室山で木曽義仲に大勝し勢力を盛り返す。
しかも、源氏の身内争いで、木曽義仲は粟津の戦いで戦死。
まさに、源氏と平家が一進一退の戦いをしていた頃。

で、頼朝、すでに東国を支配していたものの、あくまでも勝手に支配しているだけ。
まー、勝手にというのもあれだけど。
ちゃんと領国経営ができるなら、勝手に支配でもいいのかもしれないけど。

で、頼朝、朝廷と交渉をする。
その結果、朝廷から、年貢をきちんと納めることを条件に、東国の自治を認めてもらう。
こうして、東国の自治のお墨付きをもらう。

つまり、1183年説は、鎌倉幕府が朝廷から東国の自治を認められた年であり、この年を鎌倉幕府の成立年と考える説。

③1184年
この年も、源平の戦いの真っ最中だった頃で、一の谷の戦いが行われた年。
平家一門は、この戦いで源氏に敗れて、大打撃を受けてしまう。
しかも、平家一門の方は、圧倒的兵力だったらしいけど。。。
まさに、平家に傾きかけた流れが、再び、源氏に戻った頃となる。

この年、鎌倉幕府は、政治を行う部署として、政所、問注所を作っている。
政所は、政治をする上で必要な事務作業をするところで、今でいう役所みたいなところ。
問注所は、争いを解決するところで、今でいう裁判所みたいなところ。
これで、侍所、政所、問注所という幕府にとって大事な役所が3つ完成する。

というわけで、1184年説は、幕府の三役所が完成した年ということで、この年を鎌倉幕府の成立年と考える説。

④1185年
この年は、源平の戦いが終結した年。
この年、平家一門は、壇ノ浦の戦いで敗れて滅亡する。
多分、日本史の年表の中でも、まーまー大事な年だと思う。

この年、頼朝は、朝廷から全国に守護・地頭を置くことを認められる。
乱暴に書くと、守護も地頭も、地方を治めるための役人のこと。
守護が行政担当で、地頭が税務担当といったところか。

つまり、1185年説は、東国ローカルの鎌倉幕府が全国展開をはじめた年で、この年を鎌倉幕府の成立年と考える説。

ただ、実際には、奥州には藤原氏がいた。
また、西日本にしても、守護・地頭を置けたのは、平家没官領だけだったとか。
つまり、この時点では、全国展開もまだまだ限定的だった模様。

⑤1192年(従来説)
この年は、源頼朝が、鎌倉幕府の征夷大将軍に任命された年。
幕府のトップは将軍であり、その将軍に源頼朝が任命されたことで、鎌倉幕府の成立とする至ってシンプルな説。
今でも、新政権は、国会で指名を受けて、天皇から任命された日に発足するんじゃなかったっけ?
昔からある説で、一番分かりやすい。

ちなみに、平成の時代にも征夷大将軍がいた。
「征夷」じゃなくて「誠意」だったけど。
すみません、どうでもいい話でしたね。。。
スルーしてください。
しかも、ほとんどの人は、もう完全に忘れているだろうし。。。

⑥1221年
この年は、承久の乱が起きた年。
承久の乱、聞いたことありますか?
後鳥羽上皇と北条義時が戦って、北条義時が勝った戦い。

この承久の乱、後鳥羽上皇が、政権を取り戻そうと鎌倉幕府を倒すことが目的だったと言われている。
ただ、不明な点も多い。
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒すつもりはなく、執権・北条義時が隠居をさせることが目的だったとも。

で、当時、西日本は朝廷、東日本は鎌倉幕府と、それぞれすみ分けして統治をしていたんだとか。
それが、後鳥羽上皇が敗れたことで、鎌倉幕府が日本全国を完全に支配することになる。

つまり、1221年説は、鎌倉幕府が実質的に天下統一をした年で、この年を鎌倉幕府の成立年と考える説。

と、まー、色々とテキトーに書いてみた。
結局、どの年が成立年としても、それぞれに理屈は通る。
もーね、いっそのこと、1180年から1221年と、長い年月をかけて完成したとでもするか。。。

今回はこの辺で。

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