方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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相良義陽~島津家と阿蘇家のはざまで

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 104
戦闘 146
智謀  72
魅力  71
野望  61

今回は、相良義陽です。
これ、「さがらよしひ」って読むんだそう。
てっきり「さがらよしあき」かと思っていたけど。

それで、最近、足利義栄、毛利勝永とマイナーな武将にスポットを当てている。
そして、僕の中では、この相良義陽もスポットを当ててやりたいマイナー武将なのね。
例えば、前回の毛利勝永は華々しい最期を迎えた武将だった。
今回の相良義陽は、上司と友、あるいは、敵と味方の間で苦悩の最期を迎えた武将となる。

で、さっそく、能力値のチェックから。
いやー、この相良義陽も、クソみたいな数字が並んでいる。
だいたい、天翔記で能力値が100を切っていたら、もう完全なクソ武将だから。
まー、戦闘だけは、及第点かもしれないけど。

この相良義陽、1544年、肥後国(今の熊本県)に生まれている。
同じ世代としては、徳川家康(1543年)、浅井長政(1545年)などがそう。
何となく時代が分かるでしょうか。

それで、義陽が12歳の時に、父が亡くなる。
当然、家督を継ぐんだけど、12歳だから当主なんて無理なわけ。
で、まだ、祖父が生きていたもんだから、その祖父が後見役として相良家を盛り立てる。
まー、実際は、盛り立てるよりも、牛耳るの方が近いと思うけど。

ところが、この祖父もすぐに亡くなる。
それで、義陽が正式な当主となる。
ところが、これを快く思わない人たちがいて、その者たちが謀反を起こす。
義陽にとっては、いきなりの試練。
で、義陽は、何とかこの謀反を鎮める。

何とか謀反を乗り切った義陽に、再び、試練が訪れる。
今度は、家臣どうしが勝手に内紛を起こす。
しかも、相良家の家臣三人が、奉行に仕える侍女を奪おうとしたことが原因だとか。
平たく言えば、女の奪い合いか。

ウィキペディアには、「些細な私事を発端とする」と書いてある。
いやー、本と、些細なこと。
どーでもいいわー。
ところが、これが、相良家を二分する争いとなるわけ。
で、義陽、何とかこの争いも鎮める。
それで、二度の内紛を乗り越えたことから、本当の意味での当主として認められる。
そして、1564年、島津家の攻撃を受けるも、これを退ける。

うーん、なかなか頑張っていて、いい感じじゃない?
すると、将軍・足利義輝から、「義」の字をもらい、「義陽」と名乗るようになった。
一応書くと、実は、ここまでの義陽の名前は「頼房」だったのね。
めんどくさいから「義陽」で統一していたけど。
しかも、同時に、従四位下・修理大夫の官位までもらった。

これ、室町幕府から、その実力を認められたという証だと思う。
義陽自身も、すっごく喜んだと思うよ。
ところが、これが、ちょっとした波紋を広げてしまう。
義陽としては、箔を付けようとしたんだろうけど、かえって墓穴を掘ってしまうのね。

すぐさま、大友家と島津家から、「相良の分際でけしからん!」と抗議を受けてしまった。
実は、相良家、相当弱かった。
ドラえもんで言うところの、のび太。
一方、大友家と島津家は、ドラえもんで言うところのジャイアン。
で、大友家と島津家から、「のび太のくせに生意気だぞー」って言われてしまう。

特に、相良家にとって主君に当たる大友家からの抗議は激しかった。
で、しばらくの間は、外交文書に「義陽」の署名ができなかったとか。
もし、大友家にバレたら、また怒られてしまうから。

ところで、その頃、九州は、島津家が勢力を拡大しつつあった。
1572年、木崎原の戦いで、島津家は、日向国(今の宮崎県)の大名だった伊東家に勝利する。
この木崎原の戦いでは、相良家も伊東家に援軍として向かう予定だった。
しかし、援軍に向かう途中で、伊東家敗北の知らせが届くと、義陽は援軍をあきらめる。

1578年、耳川の戦いでは、島津家は、豊後国(今の大分県)の大名だった大友家に勝利する。
そして、ここから、一気に島津家の九州制覇が始まる。
その最初の目標となったのが相良家。

数年にわたり、島津家の攻撃を防いできた義陽でしたが、1581年、ついに相良家は島津家に降伏する。
そして、領土の一部を割譲し、自分の子どもを人質として島津家に差し出す。
しかし、義陽にとって最大の試練は、ここからで・・・

義陽は、島津家から、阿蘇家を攻略するように命じられる。
阿蘇家というのは、相良家と同じく肥後国(今の熊本県)に勢力を張る小大名。
その阿蘇家には、名将の誉れ高い甲斐宗運という武将がいた。
そして、義陽と甲斐宗運は盟友関係にあって、固い絆で結ばれていたそう。
島津家も、それを分かった上で、義陽の忠誠心を試そうとしたのだろう。

それで、義陽は、悩むわけです。
相良家を守るためには、宗運と戦わなければならない。
宗運を守るためには、島津家に対して反逆することになる。
しかし、それでは相良家を守ることができない。

そして、ついに、義陽は宗運と戦うために、阿蘇領内に攻め込む。
戦いを前に、義陽は宗運と交わした盟約の誓詞を焼き捨て、自分の死と子孫の繁栄を願ったとか。
これだけでも、その胸中は本当に苦しいものだったと思う。

義陽は、阿蘇方の城をいくつか落とした後、響野原という場所に陣を敷く。
これを聞いた宗運は「義陽は、死ぬ気か!?」と思ったそう。
それぐらい、陣地にするには悪い地形だったのでしょう。

戦いの日は、小雨が降り、霧が立ち込めていたと伝わる。
宗運は、軍勢を二手に分けると相良勢を挟み撃ちし、相良勢は義陽以下全員討ち死する。
しかも、義陽は、決して逃げるそぶりもなく、床几に座った状態でいたところを討ち取られたとか。。。

こうして、義陽は亡くなるのですが、敵味方からその死は嘆き悲しまれたそうです。
それなら、最初っから戦うなよって、思うけど。
特に、盟友であった宗運は、「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家もあと数年の命脈であろう」と涙ながらに語ったとか。
この戦いから2年後、甲斐宗運も亡くなる。
そして、阿蘇家も島津家との戦いに敗れ、滅亡する。

最後に、その後の相良家の話を少し。

島津家に降伏したものの、相良家は、大名として存続している。
それどころか、すごい記録を持っている。
それが何かというと、武家政権の時代において、ずっと変わらず同じ領土を守り抜いたという事実。
武家政権の時代ということは、鎌倉時代から始まって、江戸時代が終わるまでの約800年間のこと。

多分ね、大名として存続した大名なら、ある程度あるとは思うのね。
それが、領地替えもなく、一つの領土を守り抜いた大名と言うと、ほとんどいない。
この記録を持っているのは、薩摩の島津氏、対馬の宗氏、陸奥の相馬氏、肥後の相良氏だけなんだとか。
目立たないけど、すごくないですか?

今回はこの辺で。

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