方丈記に、似た運命

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鴨長明とゆかりの人物④~源実朝

鴨長明にゆかりのある人物、今回は、源実朝。

源実朝。
これ、「みなもとのさねとも」と読む。
日本史の教科書には出てくるけど、マイナーな人物か。

ちなみに、お父さんは、源頼朝。
鎌倉幕府の初代将軍で、武家政権を切り開いたといわれる人物。
で、源実朝は、鎌倉幕府の三代将軍。
ということは、けっこうえらい人物。

しかも、和歌の腕前がまた良かった。
将軍と言うよりも、歌人として名を残している。
自分でも和歌集を作るぐらい、和歌に対する造詣は深かった。

ところで、長明さんは京都にいて、源実朝は鎌倉にいる。
しかも、身分の差も大きい。
ふつーは、接点があるように思えない。

この二人を結びつけたのは、飛鳥井雅経だった。
飛鳥井雅経は、後鳥羽上皇に仕えていたが、その前は、鎌倉幕府にも仕えていた時期があった。
まー、とばっちりを受けて鎌倉に置かれていたんだけど。
ただ、源頼朝からの評価は高く、その息子(源頼家、源実朝)たちとも仲が良かった。
和歌や蹴鞠に優れていた。
後鳥羽上皇からは、蹴鞠の腕前について「蹴鞠長者」と言われている。

そして、飛鳥井雅経は、源頼朝の猶子となっている。
まー、実子ではないけど、我が子同然といったところか。
これだけ見ても、源頼朝からの評価が高いことが伺える。

で、この源実朝、和歌の師匠を求めていた。
僕の想像だけど、源実朝は、飛鳥井雅経に「誰か、和歌の師匠になってくれる人を見つけてくれないだろうか?」と相談したのではないか。
実は、源実朝には、すでに藤原定家が和歌の師匠としていた。
でも、そこで別の人物を求めるということは、藤原定家とは別の流派の人間を、和歌の師匠として求めたのだろう。
そこで、飛鳥井雅経は、長明さんを推薦する。

飛鳥井雅経は、長明さんの和歌を評価していた。
新古今和歌集に入った長明さんの和歌の半分は、飛鳥井雅経が選んだと伝わる。
分からないけど、和歌以外にも、なにか魅力を感じていたのではないか。

で、二人は、源実朝に合うために、鎌倉へと向かう。
で、このあたりの話は、方丈記には書かれていない。
いつも出てくる、源家長日記にも書かれていない。
実は、吾妻鏡に書かれてある。

吾妻鏡と言うのは、鎌倉幕府の歴史書。
いわば、鎌倉幕府の正当性を記した書物。
そこに、源実朝と鴨長明が面会したという記録が残っている。

その原文がこれ。

【原文】
鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、依雅経朝臣之挙、此問下向。
奉謁将軍家、及度々云々。
市今日当子幕下将軍御忌日、参彼法花堂。
念論読経之問、懐旧之、涙頻相催、註一首和歌於堂柱。

草モ木モ廃シ秋ノ霜消テ空シキ苔ヲ払ウ山風

【訳】
下鴨神社の氏人家で従五位下の官位である鴨長明が、飛鳥井雅経の推挙により、鎌倉に下向してきた。
長明は、実朝公と何度かお会いした。
そして、長明は、鎌倉幕府の初代将軍であった源頼朝の命日に法花堂(源頼朝を祭る施設)に参り、頼朝公を忍ぶ和歌を一首、法花堂の柱に刻んだ。

草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払ふ山風

(まさに草木までもがなびくぐらいの権勢を誇った頼朝公も、秋の霜のように消えてしまい、今はただ墓の苔を払うかのように空しい風が吹いている)

方丈記では、長明さん、自分は官位もないと書いていたけど、吾妻鏡には「従五位下」とちゃんと書かれてある。
で、僕が、すごいなーと思ったのが、長明さんは、源実朝と何回も会っているという事実。
だって、源実朝は、鎌倉幕府の三代将軍。
いくら約束したからと言っても、なかなか会える人物ではない。
しかも、源頼朝のお墓に参って、そこで和歌も詠んでいる。
これなんかも、ふつーではありえないと思う。

やはり、そこには、長明さんの不思議な魅力があったのではないか。
当時の貴族生活からは、完全なはみ出し者。
でも、和歌だけでなく、音楽にも詳しいし、ものづくりもうまかった。
そうでなくても、下鴨神社という大社の子。
有識故実にも詳しかったと思う。
当時の知識人たちとは、ちょっと異なるところが長明さんにはあったように思う。

最終的に、長明さんは、源実朝の和歌の師匠になることは叶わなかった。
どうも、誰かの推薦を受けた場合には、長明さんの場合、それは叶わないのかもしれない。
ただ、源実朝の和歌に、次のような和歌がある。

【原文】
君が代も 我が世もつきじ 石川や 瀬見の小川の 絶えじと思えば

【訳】
後鳥羽上皇の治世も、私の治世も、尽きることはないでしょう。
石川の瀬見の小川の流れが絶えないように。

「瀬見の小川」は長明さんが第一号の歌枕。
しかも、この和歌は、後鳥羽上皇に向けて詠んだ和歌。
源実朝は、長明さんの教えも取り入れていたんだと思う。
また、後鳥羽上皇もこの和歌を詠んで、「これは、長明の和歌だな」ってすぐに分かったと思うのね。
そんなことを思うと、和歌が取り持つ不思議な縁を感じる。

この源実朝、不幸な最期を遂げる。
そもそもの発端は、兄・頼家の将軍職追放に始まると思う。
兄・頼家は、将軍だったにもかかわらず、家臣たちの支持が薄かったのか、将軍職を追放される。
その結果、将軍となったのが、実朝だった。
しかも、兄・頼家は、追放された後に、暗殺されている。
享年23才だったという。

そして、その後、将軍職に就いた源実朝は、兄・頼家の子で出家していた公暁を猶子とする。
つまり、甥っ子を自分の子とした。

1219年。
鎌倉の鶴岡八幡宮で、新年祝賀が行われていたときのこと。
その日の行事を終えて帰ろうとする実朝は、突然襲われると刀で切られて、そのまま落命した。
襲ったのは、公暁だった。
源実朝、享年28才。
将軍にもかかわらず、あっけない最期だった。

しかも、その二年後の1221年。
後鳥羽上皇は、承久の乱を起こすと、鎌倉幕府と戦うも大敗をしてしまう。
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府に捕えられると、隠岐の島に追放となる。

長明さんと縁のある二人の権力者が、こういう結果になるとは、なんとなくだけど残念。
ちなみに、後鳥羽上皇は、隠岐の島に流された後も、18年間、その地で暮らした後に亡くなっている。

今回はこの辺で。

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