方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/hojoki/58/ 


夫、三界はただ心ひとつなり。心、もし、やすからずは、

【原文】
夫、三界はただ心ひとつなり。心、もし、やすからずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今、さびしき住まひ、一間の庵、みづから、これを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匈となれる事を恥づといへども、帰りて、ここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。
もし、人、このいへる事をうたがはば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして誰かさとらむ。

【訳】
そもそも、この世の中というのは自分の心次第である。心が穏やかでない時は、どれだけ宝物があっても、どれだけ立派な屋敷に住んだとしても、心が満たされることはない。今、私は、日野山でわずか一間の方丈の庵に住んでいるが、心から今の家に満足している。たまに都に出かけていった時など、乞食のようなみすぼらしい姿を恥ずかしく思うこともあるが、家に帰れば、都の人たちが世間の中であくせく生活している姿を見ると気の毒に思う。

もし、この言葉を疑う者がいるなら、魚や鳥の姿を見て欲しい。魚は、飽きることなく水の中で生活をしている。魚でなければ、その思いはわからない。鳥は、林の中で生活することを望んでいる。その鳥の心は、鳥にしか分からない。閑居の生活の味わいも同じで、実際に住まずして誰がその良さを分かるだろうか。

【わがまま解釈】
三界とは仏教用語。
欲界、色界、無色界の3つを指すみたい。
一応、調べてみたけど、難しすぎて深入りすると危険だと思ったので、さらっと見ただけで終わりにした。
ごめんなさい。

意味としては、ざっくり、本当にざっくりだけど「この世の中」で良いと思う。
ざっくり過ぎて、僧侶から怒られるかもしれないけど。

ただ、昔の古い言葉に、「女三界に家なし」というのがある。
その三界。
昔の女の人は、若い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従うということで、この世界では耐え忍ぶことが多く、安心できる場所がないということを示す言葉となる。
最近は、女性もだいぶ強くなったけど。
これも陰徳だろうか。

次に、象馬七珍と宮殿楼閣。
いやー、こんな言葉も普段は使わない。
象馬七珍は、仏教で輪、象、馬、珠、女、居士、主兵臣の7つを七宝というらしいけど、このこと。
ここでは、宝物と訳した。
宮殿楼閣は、これは身分の高い者が住む豪華な建物ということ。
ここでは、立派な建物と訳した。

この宮殿楼閣、長明さんが方丈の庵に持ち込んだ往生要集の中にも出てくる単語。
もしかしたら、そこから取ったのだろうか。
単純に、ごくありふれた言葉だったかもしれないけど。。。

つまり、この世の中は、自分の心持一つで楽しいところにもなるし、つらいところにもなるということ。
心がつらければ、どれだけ宝物があっても、どれだけ立派な建物に住んでいても、心が満たされることはない。

このあたりの文章も、方丈記という作品にとても親近感がわく。
長明さんも、ずーっとこのことを感じていたと思う。

長明さん、たまに、都に出かけることもあったらしい。
そうなのよ。
長明さん、何回か引っ越しをするんだけど、決して、都から遠く離れてはいない。
どこかの回で、色んな動物が出てきて、田舎暮らしを思い知らされたとあったけど、それでも都からは近かった。
長明さん、やっぱり、都を離れることができなかったんだろう。

で、都に出かけていくと、みんなきれいな装いをしているのでしょう。
かつては、長明さんもそうだったはずだけど。
そして、翻って自分の姿を見ると、乞食のような姿。
前回だったか、着る服なんか、粗末なもので良いと書いていた。
でも、やっぱり、「ちょっと恥ずかしいなー」と思うこともあるらしい。

ところが、家に帰って、改めて思い直してみる。
そして、都の人たちが、あくせく生活をしているのを見て、「気の毒だな」と思う。

このあたりは、方丈記の真骨頂だと思う。
僕が勝手にそう思っているだけだけど。

・着る服は、粗末な服でも十分だ。
・でも、都へ出かけると、ちょっと恥ずかしい。
・でも、家に帰ると、都の人を気の毒に思う。

このグルグル回るような心の動き。
だいたい、古典に出てくるお話って、「これが悟りだ!」といった書き方をしているものが多いように思う。
これが答えだ、みたいな書き方。
これこそあるべき姿だ、みたいな書き方。
特に、徒然草はそんなイメージがある。

でも、方丈記は違う。
つねに、心が動いている。
つねに、「そうは言ってもなー」という書き方をしている。

方丈記の冒頭は、悟りの境地を書いた最高の文章だとも言われる。
しかし、方丈記の最後では、「そうは言ってもなー」という書き方になる。

今、こうやって方丈記を読んでいるせいもあるだろうけど、僕は、人間を、

「方丈記型と徒然草型の二つに分類する」

ことも面白いように思う。
僕だけにしか分からないと思うけど。

方丈記型は、物事を分けて考えられないタイプ。
分けることができないから、迷いの中を生きるタイプ。

徒然草型は、物事をきちんと分けて考えるタイプ。
だから、「答えはこれだっ!」ってスパッと答えるタイプ。

で、こうやって、二つのタイプに分けると、どっちが良いとか悪いとかになるかもしれないけど、どっちも同じだから。
別に、そういうつもりで分けたんじゃないから。
ただ、こういう風に分けたら面白いかなって、それだけだけから。

次に、長明さんは、もし、今の言葉について疑うのであれば、魚や鳥を見るがいいと言う。
魚は水の中で飽きることなく生活しているが、その居心地の良さは魚でなければ分からないとある。
鳥についても同じ。
鳥は常に林の中で暮らしているが、それは鳥にとって林が快適な環境であり、その快適さは鳥でなければ分からないと書いている。

そして、実際、自分もこの一間しかない方丈の庵で生活しているが、ここでの生活の味わいは、実際に生活したものでしか分からないだろうと書いている。

分からないけど、当時、長明さんを知る者たちも、「お父さんは立派な神官だったのに、長明さんは完全に落ちぶれたなー」と思っていた人もいたと思うのね。
「方丈の庵だか何だか知らないけど、小汚い小さな家に住んで、どこが良いの?」と。

でも、長明さん、方丈の庵も同じで、住まずしてこの生活の良さは分からないと書いている。
で、僕も、実際、そうだと思う。
決して、強がりとか、開き直っているのではないと思う。
実際に住んでみて、感じだたことをそのまま書いただけではないか。

方丈記もそうだと思う。
学生時代に知識としては習った。
でも、方丈記の良さは、やはり、読んだ者にしか分からない。
人生に悩んでいる者が読めば、とても心のよりどころになると思う。

今回はこの辺で。

次のページ>>抑、一期の月かげ傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに、三途の闇に向かはんとす。
前のページ>>衣食のたぐひ、またおなじ。藤の衣、麻の衾、得るにしたがひて、肌をかくし、

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう