方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる

【原文】
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

【訳】
宝石を敷き詰めたように光り輝く美しい都には、身分の高い人や低い人の家が並んでおり、まるで屋根の高さを競い合うようである。
そんな家は時代が変わっても、ずっとそこに存在し続けているように感じてしまう。
しかし、本当にずっと変わらることなく存在しているのかどうかを調べてみると、昔からずっと変わらずにそのままの形で存在している家は、はっきり言ってほとんどないのである。
昨年に火事で焼けて、今年に新しく建てた家もあれば、かつては存在していた大豪邸が、今となっては小さな家になっていることもあるのだ。
そして、それは人も同じだ。
立っている家の場所も変わらず、住んでいる人もたくさんいる。
しかし、かつて見覚えのある人は、20~30人に1~2人ぐらいとわずかな人数なのだ。
私たちが生きている世界では、朝にどこかで死ぬ人がいると思えば、夕方にはどこかで赤ん坊が生まれている。
私たちが生きている世界では、今、ここに書いたようなことがいつも起きていて、これは、川のよどみに浮かぶ水の泡と同じように感じられるのだ。
つまり、人間界も自然界も無常という同じ原理で成り立っているのだ。

【わがまま解釈】
前回の冒頭の文章の続きです。
ここでは、その冒頭の文章を受けて、色々と説明をしています。

まず、長明さんは都のことを、「宝石を敷き詰めたように光り輝く美しい」と表現している。
まー、これは、文章の勢いでしょうね。
確かに、他の都市と比べれば、美しかったとは思うけど。
この表現は、奥州の平泉が「黄金の都」と言われたのと同じじゃないですかねー。

そもそも、当時の都って、保元の乱、平治の乱、源平の争いで、かなり荒れていたと思うけど。
ていうか、長明さんだって、方丈記の中で、福原遷都では、平安京は完全に荒廃したって書いてある。
また、安元の大火では、平安京の3分の1が燃えたとか、書いてあったと思う。
さらに、養和の飢饉では、人々は食べるものがなくて、多くの人が死んだとか、その死んだ人を片付けることもできなかったとか、そんな文章もあったと思う。
しかも、元暦の地震では、平安京では、無事な建物がなかったって書いてあったと思うし。
うん、確か、そんなこと書いてあったと思う。

そー思うと、当時の平安京って、そこまで光り輝くような美しさはなかったように思うけど。。。
実際は、どうだっだんでしょうか。。。

と、まー、そんなことを思っていると、一つ思い出した話があった。
完全に話はそれるけど。

徳島県に脇町というところがある。
中には、「徳島県ってどこ?」って人もいるかもしれないけど。
その脇町は、うだつの町並みで有名なところ。
僕も何回か行ったことがあるけど、江戸時代の風情が残っていて、個人的には好きなところ。

それで、「うだつ」って分かりますか?
最近の家にはないけど。
これは、江戸時代に、家に取り付けられた防火壁のことなのね。
家と家の間にうだつを取り付けて、火事になった場合に、少しでも隣の家に燃え移るのを防ぐ役目があるのね。
それで、このうだつを取り付けるためには、相当のお金がかかったそう。
だから、うだつがある家は、裕福な家という暗黙の了解があったのね。

それで、江戸時代の脇町の民家が、うだつを取り付けようと競い合ったように、平安時代の平安京の人たちも、屋根の高さを競い合ったのかもしれない。
いや、本とかどうかは知りませんよ。
テキトーに書いただけなので。

それで、長明さんも、平安京の様子を眺めていたかもしれない。
そして、ふと、長明さんは思う。
「昔から変わらず立っている家ってあるのかな???」

それで、調べてみた。
すると、「昔からある家、少なっ!!」
というのも、昨年に火事で焼けた家が、今年になって新しく家を建て替えたということもあった。
あるいは、かつてはあった大豪邸が、いつの間にか小さな家になっていることもあった。
つまり、意外と、昔からそのまま残っている家ってなかったのね。

さらに、長明さんは思う。
「家が変わっているなら、そこに住んでいる人だって変わっているんじゃないの?」

それで、再び、調べてみた。
すると、昔からいると思われる人は、20~30人に1、2人だった。
「昔からいる人、少なっ!!」

まーね、生まれる人もいれば、死んでいく人もいる。
新しく来る人もいれば、引っ越す人だっている。
まー、当たり前のことかもしれない。

そうやって、家も人も、入れ代わり立ち代わりして変化しているわけ。
で、長明さん、私たちが生きている世界は、自然の世界と何ら変わりがないのではないかと考える。
つまり、この世の中は、変化していると。
変わらないものはない。
無常。

長明さん、この無常の重要性を訴えたかったんだと思うのね。
ただね、無常という言葉、なかなか難しい。
例えば、辞書を引けば、いくらでも意味は書いてある。
しかし、それを読んだところで、全く突き刺さらない。

で、(突き刺さるような)別の表現にするなら、「はかないこと」ではないかと思う。
但し、「はかない」となると、「無常」からは少し意味がずれてくる。

・束の間であっけないさま。むなしく消えていくさま。
・不確実であったり見込みがなかったりして、頼りにならないさま。
・めどがつかない。見通しがはっきりしない。
・甲斐がない。無駄である。
・取り立てていうほどではない。取るに足りない。
・思慮分別が足りない。未熟である。また、愚かである。
・粗末である。みすぼらしい。

辞書を見ると、こんなことが書かれてある。
こんなにたくさん意味があるとは知らなかったけど。
で、「無常」を「はかない」として捉えると、なんと、まー、長明さんにピッタリだと思ってしまう。
もーね、長明さんのことをうまく表現している(と思う)。

それで、話を戻して、長明さん、無常を書くのにどうして家や人のことを書いたのか。
このあたりは、僕にも分からない。
ただ、長明さんって、当時で言うと、完全なアウトロー的な存在だったと思うのね。
つまり、かっこよく書くと、自分は、平安貴族と違ってロックな生き方をしてるぜって、言いたかったのかもしれない。
つまり、家が立派だとか、下人が多いとかは、大したことないってことね。
まー、反骨精神か。

あとは、長明さんのご先祖に当たる慶滋保胤が書いた池亭記の影響。
アウトローな生き方をする長明さんにとって、慶滋保胤は人生の道しるべだったと思うのね。
そして、方丈記を書くにあたって、池亭記は重要な参考資料だったと思う。
僕も、ちゃんと読んだわけではないけど、基本的に、方丈記は池亭記を踏襲する形で書かれてある。
そして、池亭記にも家や人の話が書かれてあるのね。

それで、池亭記の影響もあったと思うけど、当時の世相を端的に表現するために、家や人の様子を書かないわけにはいかなかったのかもしれない。

今回はこの辺で。

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