方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、

【原文】
すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。

【訳】
だいたい、この世の中は、生きていくこと自体が大変なものである。自分の身と住まいがはかなく、もろいのも今まで書いてきたとおりである。ましてや、人それぞれに、住んでいる環境、身分に従って悩みの種はあり、その悩みをいちいち数えていたら切りがない。

【わがまま解釈】
前回までは、元暦の地震のお話だった。
大きく言えば、五大災厄のお話だった。
で、前回までが方丈記の前半。

今回からは、方丈記の後半部分に入っていく。
まさに、方丈記の大事な部分。

それで、ここに書いていることは、もう本当にその通りとしか言えない。
だいたいね、世の中って、生きていくこと自体が大変。
どこかで書いたけど、お釈迦様はこの世は「苦」だと説かれた。
いやー、本当にそう。
僕なんか、毎日が「苦」。
本当に生きていくのが苦しい。
毎日同じところをぐるぐる回るだけで、全く進んでいない。

長明さんも同じように生きることに苦しんでいた。
長明さん、人生の節目節目で負け続けた。
いつも悩みと隣合わせの毎日。
人生の負け組。

僕も、人生の負け組。
あの時に、あんな判断をしなければとか、あーいう行動をしなければとか、もう少し我慢すればとか、色々と思うこともある。
でも、負け組の人生を送ることになったのも、全ては自分のせい。
文句を言っても仕方がない。
もしかしたら、長明さんも、同じようなことを思ったかもしれない。
で、そんなことを思いながら、自分を慰めたりする。

それで、自分の身と住まいが、はかなくもろいのも、今まで書いてきた通りとある。
これもその通り。
僕だって、いつの間にか四十半ばになった。
若い時がずーっと続くわけではない。
近頃は、多少の老いを感じることもある。
そして、今の生活を繰り返していく内に、そのうちいつか死ぬことになる。
自分の身ですら、はかなくもろいもの。

でも、僕たちは、今がずーっと続くと思っている。
命もそう。
僕たちは、いつか必ず死ぬ。
ところが、「明日死ぬことはないだろう」とか「一週間以内に死ぬことはないだろう」とか「近い内に死ぬことはないだろう」と、勝手にそう思っている。
でも、死というのは、突然、襲ってくる時もあるのだ。

家もまた同じ。
方丈記の五大災厄でも、いかに家がはかなくもろいかを書いてあった。
それは、今の時代も同じ。
平成の時代にも、多くの災害があった。
そして、多くの家が失われていった。

最後に、長明さん、人それぞれに住んでいる環境だとか、身分だとか、その人の状況があって、そして、その状況に応じた悩みがって、それを数え出したらキリがないと書いている。

結局、人それぞれ、その人の置かれた状況に応じて、悩みはあるのね。
しかも、悩みは尽きないとある。
悩みから逃れるられる術はない。
ところが、僕たちは、少しでも逃れたいと思う。

もしかしたら、修練を重ねた立派なお坊さんなら、悩むこともないのだろうか。

例えば、浄土真宗を開いた親鸞聖人。
ある日、弟子での唯円が「僕、いくら修行をしても、全然悟れないし、修行によって救われたとも思えないんですけど・・・」と言うのね。
それに、対する親鸞の答えは、「いやー、実は、僕もそうなんだよねー」だった。
まさかの「me too」。
ちょっと乱暴に書いたけど、親鸞ほど修練を重ねた人物でも、苦悩があったらしい。

例えば、永平寺貫首だった宮崎奕保禅師。
永平寺と言えば、曹洞宗の大本山で、日本最強の宗教道場。
そこのトップだった宮崎禅師、「座禅をすれば良き人になれる。でも、なかなかなれない」と言っている。
やはり、煩悩から抜け出すのは難しいらしい。

例えば、カトリックのシスターだった渡辺和子さん。
一応書くと、ベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」を書いた方。
で、その本は、次の文章から始まる。

「修道者であっても、キレそうになる日もあれば、眠れない夜もあります。」

また、別のとこには、心に波風が立つ日もあると書いてあった。
シスターであっても、悩みから解放されることはないらしい。

それで、こういった大宗教家と同列に並べて申し訳ないんだけど、僕も、本当に悩まない日はないというぐらいに悩んできた。
僕ほど人間が小さい奴はいない。
で、僕は、いつも、悩みから逃げた。
でも、逃げた先でまた別の悩みが出てくる。
結局、逃げたら逃げたで、逃げた先でもそこの状況に応じた悩みが生まれるだけだった。

あー、なんか、こんなことを書いていたら、なんだか辛くなってきた。
後ろ振り向いて、辛くなるだけの扉を開けてしまった。

あー、気分は、完全に無縁坂。

運が良いとか悪いとか
人は時々 口にするけど
めぐる暦は 季節の中で
漂いながら 過ぎてゆく

まー、今回は、ほとんどどーでもいい話だったか。
で、僕は、方丈記について、改めて考えてみた。

方丈記という作品は、色々な見方ができると言われている。
随筆、自伝、災害文学、仏教本とか、色々な顔を持つ作品。
ただ、僕は、方丈記には「鎮魂」という面もあるように思っている。
ていうか、「鎮魂」こそが目的ではなかったかとさえ思う。

つまり、今も昔も大災害の後に鎮魂の行事が行われるように、人生の大災害を受けた者が、これを読めば、少しは心も慰められるという「鎮魂」だと強く言いたい。

方丈記は、悩んでいる人間を無条件で受け止めてくれる、そういう作品だと思う。
だって、今の世の中、悩んでいる人間を無条件で受け止めてくれる場所なんてないよ。
誰かに相談したところで、親身になって聞いてくれる?

まーね、本なんて、読んですぐに、何かが変わることはない。
実際、僕も、方丈記を読み始めて三年年ぐらい経つけど、目に見える変化はない。
しかし、方丈記と一緒に、ずーっと生きている。

今回はこの辺で。

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