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大嘗祭について
今回は、大嘗祭について。
ちなみに、しばらくこのシリーズ続きます。
まー、大して面白い話でもないけど。
我慢してください。
この前、大嘗祭が行われた。
大嘗祭。
これ、「だいじょうさい」と読む。
昔は、「おほなめまつり」と読んでいたとか。
宮中祭祀の一つ。
だから、お祭りと言っても、一般人は参加できない。
で、実際、どういう風なものなのかも、ほとんど知られていない。
この大嘗祭、収穫感謝の秋祭りのことらしい。
それで、通常は、収穫感謝の秋祭りは、新嘗祭を行っている。
新嘗祭。
これ、「にいなめさい」と読む。
昔は、「にいなめのまつり」と読んでいたらしい。
当然、これも宮中祭祀の一つ。
この新嘗祭は、毎年、11月23日に行われている。
ただ、新天皇が即位した年だけは、収穫感謝の秋祭りを新嘗祭ではなく、大嘗祭として行うらしい。
どうやら、昔からのしきたりらしい。
それで、大嘗祭は、天皇の即位の年にしか行われないので、一生で一回しか行われない。
つまり、通常の新嘗祭と比べても重要度が高くなる。
当然、大嘗祭に不手際があってはならない。
天皇の即位を汚すことになる
それで、うわさレベルだけど、この大嘗祭は、下鴨神社が取り仕切っているという話を知った。
知らなかった。
いや、本とかどうかは定かではないけど。
ただ、大嘗祭ではなく、新嘗祭の方は、下鴨神社の神官が儀式のサポートをしているという記事があった。
もしかしたら、下鴨神社以外にも、伊勢神宮とか出雲大社の方たちも、なにかの作業の手伝いをしているかもしれない。
とにかく、この手の話は秘密が多くて、よく分からないことばかり。。。
で、ここからは、大嘗祭の歴史について。
浅い知識で申し訳ないけど。。。
さっきも書いたけど、大嘗祭は、天皇が即位した年に限りに行う新嘗祭。
祭とあっても、とても厳かな儀式。
世界中の国家元首の中で、ここまで厳かな儀式を経て、その位に就くというのは日本ぐらいではないだろうか。
大嘗祭は、神々に国家・国民の安寧、五穀豊穣などを感謝し、また、お祈りをすることにあるとか。
で、その際には、その年に収穫された農作物が、神々に捧げられる。
そして、天皇陛下もこれを食される。
この大嘗祭、歴史は古く、天武天皇の時に最初に行われたと記録は残る。
天武天皇と言えば、天智天皇の弟。
天智天皇が亡くなると、その息子・弘文天皇と政権を争う。
その結果、古代日本で最大の内乱・壬申の乱が起きる。
それで、天武天皇、乱の方だった。
ところが、朝廷の弘文天皇を倒してしまった。
それが原因かは分からない。
ただ、一説によると、大嘗祭は、天武天皇の権力強化というのもあるらしい。
ちなみに、大嘗祭は、歴史は古いと書いた。
それで、昔から、ずーっと行われてきたのかというと、そうでもなかったりする。
ていうか、もしかしたら、していない時の方が、期間としては長いかもしれない。
というのも、戦いが起きている間は、当然行うことができなかった。
また、平和の世でも、理由は分からないが、行われていなかった。
長明さんの時代に、安徳天皇という天皇がいた。
このブログでも、よく登場する天皇。
1180年に1歳2か月で即位している。
当然、大嘗祭をするはずだった。
ところが、当時、福原遷都が行われていた。
しかも、1180年6月に一旦、福原が都となるも、同年12月に、都は平安京に戻される。
それで、さー、大嘗祭をしようと思っていたら、安徳天皇の父・高倉上皇が亡くなるという不幸が起きる。
で、やっと落ち着いて、これで大嘗祭ができると思ったら、今度は、源平の戦いが起きてしまう。
で、伸びて伸びて、最終的に、大嘗祭をしたのは、即位後2年を過ぎてからだった。
こんなこともあるらしい。
安徳天皇の次の天皇は、後鳥羽上皇だった。
本当は天皇だけど、上皇の方が有名だから、上皇で進めていくけど。
後鳥羽上皇が天皇になった時、実は、安徳天皇がまだ天皇としていた。
ところが、木曽義仲に敗れた平家一門が、安徳天皇と三種の神器をもって都落ちをしたため、都は天皇不在となった。
そのため、担ぎ出されたのが後鳥羽上皇。
この方も安徳天皇同様、幼くして即位する。
で、天皇に即位するためには、三種の神器が必要だった。
ところが、三種の神器は、平家一門が持って逃げたためない。
こうして、安徳天皇がまだいるにもかかわらず、しかも、三種の神器なしで即位をすることになる。
それで、周囲の者も、今回の即位は、正当性を欠いているので、せめて大嘗祭ぐらいは立派にしてやろうと、一応、大嘗祭を実施することにしたんだとか。
一説によると、後鳥羽上皇、自分の即位に正当性がないことを気にしていたとか。
後鳥羽上皇には、後鳥羽上皇の悩みがあったのだろう。
そういう悩みを持つところが、後鳥羽上皇が、不遇の長明さんを気にかけるところにつながるのだろうか。。。
その後鳥羽上皇。
1221年、承久の乱を起こす。
鎌倉幕府を倒そうとしたことが理由らしいけど、正直、良く分からない。
後鳥羽上皇は、土御門上皇、順徳天皇と共に、挙兵する。
ちなみに、土御門上皇、順徳天皇ともに、後鳥羽上皇の子どもたち。
そして、順徳天皇は、上皇として参戦しようとしたのか、承久の乱の直前に我が子・仲恭天皇に天皇の位を譲っている。
それで、興味深いのが、仲恭天皇、2歳で即位しているのね。
しかも、承久の乱の直前ということで、天皇の即位式も大嘗祭もしていない。
承久の乱。
下馬評では、朝廷側が優勢という情報もあった。
ところが、ふたを開けてみたら、朝廷側の大敗だった。
見事なまでの大敗北。
で、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳天皇の三人は、全員島流しとなる。
そして、仲恭天皇。
この方も、鎌倉幕府の命令で、天皇の地位を下ろされてしまう。
歴代天皇の中で、最も在位期間が短い天皇だった。
まー、こんな感じで、大嘗祭というのは、その時の状況で、したりしなかったりと色々だったみたい。
あと、どーでもいいけど、後鳥羽上皇、乱を起こすなら一人でやれよって思ったけど。
あまりにも周囲の者を巻き込み過ぎだろうよ。
仲恭天皇なんかは、完全なとばっちりじゃないの。
で、その後の大嘗祭だけど、戦乱のたびに中止となっている。
室町時代の初期、南朝北朝が争っていた頃は、行われていない。
そして、1466年、応仁の乱の直前に、後土御門天皇の即位が行われた際に大嘗祭が行われるも、戦国時代に突入したためにしばらく中止の時期が続く。
その後、1687年に、東山天皇の即位に際して大嘗祭は復活して、以降は、ずっと継続して行われている。
今回はこの辺で。
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