方丈記に、似た運命

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鴨長明とゆかりの人物⑤~後鳥羽上皇


後鳥羽上皇については、今までにも書いてきた。
で、今さら特に書くこともないけど、やはり書きます。
まー、書くつもりで、こうやって書いているんだし。

後鳥羽上皇については、天皇になった経緯が少し複雑。
後鳥羽上皇の書き方は、「上皇」で統一しています。

後鳥羽上皇は、高倉天皇の第三皇子として生まれている。
当時は、いわゆる源平の戦いの真っ最中だった。
そして、当時、京都を支配していた平家一門が木曽義仲に敗れると、平家一門は都落ちをすることになる。
この時点で、天皇は、安徳天皇だった。

安徳天皇、まだ、この時点では1、2歳ぐらいだった。
そして、この安徳天皇、高倉天皇の第一皇子ではあったが、平清盛の孫でもあった。
母は、平清盛の娘・建礼門院徳子。
天皇家の血を引く一方で、平家の血も受け継いでいた。
平家一門にとっては、自分たちの正義を主張する御旗。

それで、平家一門は、都落ちをした際に、安徳天皇も連れて逃げた。
で、そうなると、京都には天皇が不在となる。
朝廷としては、一番あってはならない状態。
そのため、急遽、天皇として即位させられたのが、後鳥羽上皇だったのね。
そういう事情もあって、安徳天皇と後鳥羽上皇は、天皇の期間が2年ほど重なっている。

1185年、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門は滅亡する。
安徳天皇も自殺する。
6歳だった。
僕は、歴代天皇の中でも、最も悲劇的な天皇の一人だと思っている。

安徳天皇が亡くなったために、後鳥羽上皇が名実ともに天皇となる。
ところが、実は、ちょっとした問題があった。
それは、平家一門は、都落ちした際に、三種の神器も一緒にもって逃げていた。
で、古来より、天皇に即位するためには、三種の神器が必要といわれていた。
ところが、後鳥羽上皇の場合、こういう事情もあって、三種の神器なしで天皇に即位することになる。

で、後鳥羽上皇、このことを気にしていたらしい。
自分は、天皇の地位に就くことの正当性を欠いていると思っていたとか。
実際、朝廷内にも、後鳥羽上皇の天皇としての正当性を疑う声もあったと聞く。
本とかどうかは知らないけど。。。
テキトーに書くけど、杓子定規な人間だと、「あんなの天皇じゃない!」って思う人もいたと思うけど。
で、後鳥羽上皇も、ことさら気にしなくてもいいのに、かえって意識してしまうという悪循環もあったかもしれない。

この後鳥羽上皇、文武両道だった言われている。
文については、なんといっても新古今和歌集の作成だと思う。
とにかく、当時の優秀な歌人を集めて、中世屈指の和歌集を完成させた。
しかも、後鳥羽上皇自身、和歌の名人だった。

武については、朝廷内の軍隊の強化を図っている。
いわゆる親衛隊みたいなものだろうか。
もともと朝廷には北面武士なる軍隊があったところを、さらに西面武士なる軍隊も設置して、軍事力の強化を行っている。
ただ、承久の乱で、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、これらの軍隊は解体したらしいけど。

長明さんとの関係は、やはり、和歌所寄人となるだろう。
和歌所寄人メンバーを見ると、はっきし言って、どこの馬の骨とも分からないような人物は、長明さんぐらい。
それでも、下鴨神社の人間だから、どこの誰かは分かるけど。
しかも、メンバーの大半は、いわゆる俊成一門に入るような人たちばかり。
それ以外も、それなりに朝廷内で活躍していたりする。

後鳥羽上皇が、和歌所寄人メンバーに長明さんを選んだのも、長明さんの和歌の実力を認めていたからではないか。
また、長明さんは、音楽にも造詣が深く、ものづくりもうまかった。
琵琶なんかは、自分で作っている。
しかも、それを後鳥羽上皇に献上している。
半ば、むりやり後鳥羽上皇が奪ったような形だけど。。。

後鳥羽上皇からすると多彩であったり、自分の家臣にはない魅力を長明さんに感じたのではないか。
後鳥羽上皇は、長明さんを、河合神社の禰宜にしようとしたけど、それは叶わなかった。
その後、長明さんを、別の神社の禰宜につけようとするも、今度は長明さんが断る。
しかも、長明さん、そのまま和歌所寄人の職さえも捨ててしまう。

それでも、後鳥羽上皇は、長明さんに、自分の元に戻っておいでと言う。
でも、長明さんは、やはり戻らない。

このあたりは、後鳥羽上皇の長明さんに対する心遣いを感じるけど、どうなんだろうか。
後鳥羽上皇からすると、自分の元に入れば、必ず、出世のチャンスは来るから、もう少し我慢して自分のところにいなさい。
そういう思いだったかもしれない。
でも、長明さんからすると、後鳥羽上皇のもとにいても、自分はもう出世は叶わないと思っていたのだろう。
長明さんが和歌所寄人を出奔したのは、気持ちは分かるのね、気持ちは。
でも、もう少しあと少し我慢すれば良かったかもしれない。
長明さん、後鳥羽上皇のもとを去ったのは、見切りが早かったかもしれない。

最後、後鳥羽上皇について書くなら、承久の乱だろうか。

1221年、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒そうとして挙兵する。
ただ、この承久の乱も、なぜ起こしたのかはよく分かっていないらしい。
一説によると、倒幕が目的ではなく、執権だった北条義時を倒すことが目的だったとか。
まー、このあたりは本人に聞かないと分からないだろうけど。。。

とにかく、後鳥羽上皇は、北条義時に対して追討の院宣を出す。
上皇の院宣は、言うなれば、水戸黄門なら印籠、遠山の金さんなら桜吹雪の入れ墨。
これを出されて、ひれ伏さない奴はいない。
ところが、北条義時、これに対して、宣戦布告の使者を送りつけると、京都に攻め上った。

形勢逆転。
後鳥羽上皇、防戦するも、あっさりと大敗をしてしまう。
自分が院宣を出せば、必ず、相手は降伏すると思っていた。
ところが、結果的には、自分が降伏することになった。
うーん、なんとも皮肉な結果。。。

で、捕まる。
で、とりあえず、ごめんなさいをする。
で、隠岐の島に島流しとなる。

後鳥羽上皇としては、院政を敷きながらも、後醍醐天皇のように自らの力で世の中を治めたかったのかもしれない。
特に、幕府との関係では、舐められないように苦心したのではないか。
それで、このあたりは、承久の乱にも関係してくるけど、後鳥羽上皇、天皇をとっかえひっかえしている。

院政をした時、最初の天皇は、土御門天皇だった。
ところが、幕府と対立するにつれて、土御門天皇では頼りないと思いだす。
で、土御門天皇に退位を迫り、その弟の順徳天皇を天皇にする。
で、この順徳天皇が、後鳥羽上皇以上に倒幕思想の持ち主だった。
それで、順徳天皇は、鎌倉幕府との戦いに備えて自らも上皇になり、まだ幼かった仲恭天皇を天皇とする。
しかも、仲恭天皇、後鳥羽上皇が敗れたことで、鎌倉幕府によって天皇の地位から降ろされている。
在位期間2か月。

こんな感じだから、朝廷は相当混乱したらしい。
承久の乱の結果だけ書けば、次のようになる。

後鳥羽上皇 → 隠岐の島に島流し
土御門上皇 → 土佐国に島流し
順徳上皇  → 佐渡島に島流し
仲恭天皇  → 廃帝

周囲に巻き添えを食らわした分、評価が低くなるのも仕方ないのかもしれない。

今回はこの辺で。

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