方丈記に、似た運命
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河合神社の禰宜を巡る争い④
前回からの続き。
ついでに書くと、このシリーズの最終回。
長明さんの夢は、断たれた。
もはや、下鴨神社で神職に就くことは叶わなくなった。
失意のどん底。
この時、長明さんが詠んだ和歌が、新古今和歌集に収められている。
【原文】
身の望みかなひ侍らで、社のまじらひもせで、籠りゐて侍けるに、葵を見てよめる。
見ればまづ いとゞ涙ぞ もろかづら いかに契りて かけ離れけん
【訳】
神職の道に進むという望みが叶わず、下鴨神社との交流もなくなり、部屋に引きこもっていた時に、葵を見て詠んだ和歌。
もろかづらを目にすると、どうしても我慢できなくなって涙がこぼれ落ちてしまう。
どういう因果があって、自分は、下鴨神社から離れることになってしまったのだろう。
長明さん、神職の道は叶わなかった。
そのため、また、下鴨神社の仕事もしなくなり、部屋に引きこもる日々を送っていたのだろうか。
そんな時に、葵を見て和歌を詠んだ。
「もろかづら」というのは、葵と桂の2つを髪や冠にさすもの。
これだけでは良く分からないけど、イメージとしては、髪飾りでいいと思う。
下鴨神社では、祭事には、このもろかずらの髪飾りを付けていたんだとか。
つまり、葵の花や、それを髪飾りしたもろかづらは、下鴨神社のシンボル。
今でも、下鴨神社で五月に行われるお祭りを「葵祭」と言ったりする。
長明さん、そのもろかづらを見ると、どうしても泣いてしまうと書いている。
どうして、自分は、下鴨神社からどんどん離れていかないといけないのか。
長明さん、相続する予定だった父方の祖母の家も離れた。
家族とも離れた。
分からないけど、下鴨神社と離れることが決定的になった時、過去のこういう出来事を思い出すこともあったと思う。
長明さん、とにかく、色んなものと離れている。
でも、もし、長明さんが、河合神社の禰宜になっていたらどうだろうか。
出世ができるだけではない。
もしかしたら、再び、家族と暮らすこともあったかもしれない。
そんなことを思うと、完全に息の根を止められたに近いのかもしれない。
この頃、長明さんは、大原に住んでいた。
そして、源家長が、たまたま、なにかの用事があったのだろうか。
長明さんと会ったという記録が残っている。
もしかしたら、見かけただけかもしれないけど。
それによると、「これが本当にあの長明さんか?」とある。
どうも、長明さん、相当やせ衰えていたらしい。
神職の道へ進めなかったことが原因なのか。
単に、大原での生活が困窮だったのか。
それとも両方だったのか。
方丈記には、この頃の様子を記した部分がある。
さらっとしか書かれていないけど。。。
【原文】
すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひ目、おのずから、短き運をさとりぬ。
すなわち、五十の春を迎へて、家を出て、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。
むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける。
【訳】
だいたい、私は、この生きにくい世の中を、我慢をしながら、心を悩ませながら、30年以上生きてきた。
その間、私の人生は、節目節目で挫折を繰り返し、自分の運のなさ、人生のはかなさを悟った。
それで、50歳の春、大原に引っ越しをした。
そして、世間との付き合いを断って、出家することにした。
私には、もともと妻子はいない。
だから、離れがたい身内もいない。
自分には、官位もなければ、給料もなく、この期に及んで世間に未練などはない。
そんな思いで、大原に移り住んだが、空しく五年の歳月が過ぎただけだった。
ここのくだりは、毎回出てくる。
一番、僕が好きなところ。
おそらく、お父さんを亡くした17歳頃から、河合神社の禰宜事件の50歳頃までの約30年。
ずーっと、長明さんは、悩んでいたと思う。
あの時は、こんなつらいことがあった。
別の時には、あんなつらいことがあった。
色んなつらい思い出があった。
後ろを振り返った時に、長明さんには、つらい思い出しかなかったかもしれない。
もちろん、今回のことだって含まれているだろう。
しかし、長明さんは、淡々と語る。
その一つ一つの中身については、全く語らない。
だからこそかもしれないけど、このくだりは、本当に、僕の心に突き刺さる。
それで、50歳の頃に出家をする。
タイミング的に、河合神社の禰宜就任に失敗したことが原因だろう。
妻子はいないとある。
でも、本当はいた。
ただ、30歳の頃に別れている。
長明さんからすると、いないも同然だったかもしれない。
あるいは、文章の勢いとして「妻子はいない」と書いた方がいいと判断したかもしれない。
官位もない。
給料もない。
仕事は辞めた。
出家をするのに邪魔な要素は全くない。
そして、大原に引っ越しをする。
当時、大原は、出家者たちが大勢いたらしい。
出家者たちの聖地。
しかも、都から歩ける範囲の距離。
それで、出家をしたと言っても、完全に世間との交流を断つというとこまではなかったらしい。
長明さんも、これぐらいの情報は掴んでいたと思う。
で、自分も、大原で静かな生活を送ろうと思ったに違いない。
で、大原での生活がどうだったかというと、全く何も書いていない。
ただ、「空しく五年の歳月が過ぎただけだった」らしい。
五年も住んで、感想がたったこれだけなのか。
大原での生活は、よほど期待外れだったのだろうか。
少なくとも、方丈記の中に書けるような何かがなかったのだろう。
ちなみに、長明さん、大原の次は、日野へと移る。
そして、方丈の庵を建てる。
で、ここでの生活については、いっぱい書いている。
今回はこの辺で。
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