方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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もし、おのれが身、数ならずして、権門の傍らに居るものは、

【原文】
もし、おのれが身、数ならずして、権門の傍らに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。進退安からず、立ち居につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。 妻子・僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反(おうばん)わづらひ多く、盗賊の難甚だし。

【訳】
もし、自分は取るに足らない身分であるが、権力者の屋敷の隣に住んでいる者がいるとしよう。そして、この者にとても嬉しい出来事があったとしよう。しかし、この者は隣のお屋敷に遠慮してしまい、その喜びを爆発させることができない。また、この者にとても辛いことがあったとしよう。しかし、この者は、これまた隣のお屋敷に遠慮してしまい、大声で嘆き悲しむことができない。一つ一つの立ち振る舞いに心は動揺をし、常に隣のお屋敷を意識してびくびくしなければならないのだ。それは例えて言うなら、(強い)鷹の巣に(か弱い)雀が近付くようなものだ。

もし、自分は貧乏な家の者であるが、大金持ちの屋敷の隣に住んでいる者がいるとしよう。その者は、いつでも自分の粗末な身なりに引け目を感じて、隣の大金持ちの住人に嫌われないように愛想良くご近所付き合いをしながら、自分の家を出入りするようになる。また、自分の家族や使用人たちが隣の大金持ちを羨ましがったり、隣の大金持ちの人々が自分(自分たち)を軽く見たり、下に見たりするような話を聞けば、その度ごとに心はざわめき、落ち着きを失っていく。

もし、ぎゅうぎゅうに家が並んでいる都会に住んだとする。この場合、近所で火事が起これば、延焼から逃れることはできず巻き添えを食ってしまうだろう。逆に、田舎に住んだとすれば、交通の便が悪くて苦労が多く、強盗に遭ってしまう危険も多い。結局、人間は、住んでいる環境の影響を受けてしまうのだ。

【わがまま解釈】
今回は、当時の平安京の風俗について。
風俗と言っても、みんなが思っているようなやつじゃないよ。
まー、平安京での生活がどれぐらい大変かというお話。

まず、長明さん、権力者の隣に住む者は、気苦労が絶えないと書いている。
今風に書くと「忖度」だろうか。
それで、具体例として、次のようなものを挙げている。

・嬉しい出来事があった場合
 ⇒お隣の権力者に遠慮して、喜びを爆発させることができない。

・つらい出来事があった場合
 ⇒お隣の権力者に遠慮して、大きな声で嘆き悲しむことができない。

いやー、そこまでお隣さんに気兼ねしなくてもと思うけど。
もしかして、あまり大騒ぎしていたら、「ちょっとうるさいんですけど。もう少し、身分をわきまえてもらえます?」とかって文句を言われてしまうのだろうか。
あるいは、権力者が裏で手を回して、村八分にされたりとか、自分の出世の邪魔をしてきたりとか、そういったことがあるのだろうか。
分からないけど、平安京には平安京のしきたりがあったのかもしれない。

それで、一つ一つの立ち振る舞いに注意をし、いつも、お隣の権力者の顔色を窺うようになる。
そのことを、長明さんは「例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし」と書いている。
つまり、(強い)鷹の巣に(か弱い)雀が近付くようなものだ、と。

ちなみに、この表現だけど、池亭記の

「また勢家に近くして微身を容るる者は、屋破れたりといへども葺くことを得ず、垣壊れたりといへども築くことを得ず。楽しみ有れども大きに口を開きて咲ふこと能はず、哀しみ有れども高く声を揚げて哭くこと能はず。進退懼有り、心神安からず。譬へばなほ鳥雀の鷹せんに近づくがごとし。」

から取ったと言われている。

この部分は、比較して見ると分かりやすいけど、方丈記と池亭記でほとんど差がないように思う。
ただ、池亭記って、本当は漢文で書かれてある。
単に、コピペで書き写しただけではない。
その意味では、池亭記を元にしながらも、かなりアレンジをしている。

次に、長明さん、大金持ちの家の隣に住む者も、気苦労が絶えないと書いている。
まず、自分のみすぼらしい身なりに引け目を感じると書いている。
次に、隣の大金持ちに嫌われないように、愛想の良いご近所付き合いをするようになる。
さらには、自分の家族、使用人たちが隣の大金持ちを羨ましがったり、隣の大金持ちが自分を下に見ているのではないかと感じると、心は落ち着きを失っていく。

いやー、このあたりの文章も本当にその通り。
しかも、「さらには・・・」の最後の文章は、僕なんかすごく分かる気がする。
自分の中で、自分と相手を比較する。
そして、「あー、劣っているなー」とか「あ、恥ずかしいなー」とか「自分はもうダメだ」と思ったりする。
これは、自分の中にある自分目線。

ただ、これ以外に「自分の家族や使用人が、隣の大金持ちを羨ましがっていないか?」とか「隣の大金持ちが、自分のことを見下していないか?」などと思うこともあるらしい。
これは、自分の中にある他人目線。

つまり、自分の心の中に、自分目線と他人目線があって、その二つの視線のはざまで、心は落ち着きを失っていくと書いてある。
それで、話は大きく変わるけど、長明さんと同じ時代を生きた僧侶に道元という人がいる。
この方、曹洞宗の開祖。
曹洞宗では、この道元さんの教えに「心身脱落」というのがある。

それで、この心身脱落が何かというと、まさにこの二つなのね。

・自分の心の中にある自分目線
・自分の心の中にある他人目線

こうして見ると、周囲を気にするのって、現代人だけでなくて、昔の人もそうだったんだね。
そう思うと、昔の人の教えって、単に古い話をしているのではなくて、今の時代にも十分通用するためになるお話なんだと思う。
方丈記にしたって、古典の授業では、まーったくどこにも突き刺さらないけど、よーく読めば、けっこう良いこと書いてあるから。

そして、最後に、どこに家を建てるべきかについて書いてある。
例えば、都会に家を建てると、近所で火事が起きた場合、自分の家も燃えてしまう危険がある。
それでは、田舎に建てたらどうか。
田舎は、交通の便が悪く、しかも治安も悪かったりする。
つまり、どこに家を建てても、その環境に応じた悩みや苦労があるのね。

これなんかも、本当にその通り。
今の時代にも当てはまる。

都会だと、確かに交通の便は良いかもしれない。
また、生活に必要なもの(病院、スーパー、学校、交通機関とか)なんかも、全部そろっている。
一見、生活に困ることはないかもしれない。
ただ、その一方で、お金がかかるとか、人が多いとか、うるさいとか、色々と問題はあるかもしれない。

じゃあ、田舎だとどうか。
土地を買うにしても、家を買うにしても、都会よりは安いだろう。
また、都会にはないのんびり感もあるかもしれない。
ただ、その一方で、都会ではそろっていた生活に必要なものは、そこまで全部そろってはいないだろう。

このあたり、時代は違っても、今の時代もそんなに変わらないんじゃない?

それでね、今、田舎暮らしがブームらしい。
都会の暮らしに疲れた人たちが、田舎暮らしにあこがれて、田舎で生活をする。
田舎は、空気がうまくて、水もおいしくて、人があったかい。
と、だいたい、どこの田舎の人も言うのね。

でも、都会には都会のしきたりがあるように、田舎には田舎のしきたりがある。
意外と田舎の生活も大変だったりする。
やはり、どこに住んだとしても、その環境に応じた悩みや苦労が出てくるのね。

今回はこの辺で。

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