方丈記に、似た運命

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北条氏政~最後の最後で読み間違えたか…


◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 152
戦闘 138
智謀 108
魅力  85
野望  76

北条氏政は、どこかで書いたけど、北条氏康の嫡男。
で、世間では、北条氏康の評価は高い。
ところが、北条氏政の評価は、明らかに低い。

で、天翔記の能力値を見ても、どれも低い。
一番高いのが政治だけど、それでも152。
戦闘が138って、おかしくない?
智謀が108って、どういうこと?
僕の中では、全て160ぐらいはあっていいと思っているのに。

だいたいね、北条家の歴史について書かれた書物に「北条記」ってのがあるのね。
最初、「ほうじょうき」で変換したら、「方丈記」が出てきたけど。
むしろ、個人的には、「方丈記」の方がいい作品だと思うけど。
で、その「北条記」では、北条家の歴代当主五人のうち、氏政だけはバカ殿さまとして書かれてある。
もうちょっと評価してやってくれよ。

ちなみに書くと、北条家の最盛期を作り上げたのは、この北条氏政なんだからね。
ちなみに書くと、北条家を滅亡させたのも、この北条氏政なんだけど。
北条氏政の評価が低いのも、きっとこのせいね。

というわけで、今回はこの北条氏政について見ていきます。
で、めーいっぱい、北条氏政の再評価をするつもりです。
ここでいう再評価は、良い意味での再評価だから。

◆領国経営
北条氏政って、領国経営は上手だったと思う。
まーね、最終的に滅亡しているから、その点では0点かもしれないけど。
で、例えば、当時の氏政の周辺の大名を見渡してみる。
北条氏康、武田信玄、上杉謙信、佐竹義重、徳川家康、あとは、武田勝頼、真田昌幸、とか・・・
みんな戦に強かったイメージがある。

で、氏政の場合、正直、戦に強いというイメージはない。
むしろ、攻められてばかり、あるいは、小競り合いばかりで、なんか弱いなーって感じ。
にもかかわらず、領土は増えている。
なんせ、北条家最大の版図を築いたのは、この氏政。
戦国末期では、石高で言えば豊臣秀吉に次いで、ナンバー2の大大名。

損して得とれ。
負けて勝つ。
が、ピッタリの大名。

また、各地域の統治は、兄弟や一門衆に任せて、自分はそれを束ねるというやり方。
いわゆる軍団制みたいなもの。
これって、織田信長と同じじゃん。
そうかー、氏政も信長も領国の経営方式は、そんなに違わないのか。
なるほどね。

◆外交
北条氏政、外交についても上手だったと思う。
まーね、これなんかも、最終的に滅亡しているから、その点では0点だという人もいるんだろうけど。
ただ、滅亡したことを除けば、基本的には、問題ないように思う。
初期の頃は、三国同盟を維持し、その後は、織田家と同盟を結んだり、さらには、豊臣家に対抗するために、徳川家、伊達家と同盟を結んだりしているけど、場当たり的な同盟、同盟破棄はないように思う。

さらに言えば、養子作戦。
父・氏康も養子作戦を展開して、周辺の勢力を取り込んでいった。
で、氏政も、例えば、佐野氏に養子を送り込んで、北関東の支配を強化している。
また、小田氏治の息子を受け入れて、小田氏と共同で佐竹氏と戦ったりもしている。
このあたりも地味だけど、小さいことからコツコツと頑張っているように思う。
少なくとも、世間一般の低評価は当たらないように思うけど。

しかも、北条家って、一門内で争ったという話を聞かない。
家によっては、親子や兄弟で争ったという話もあるけど、北条家ってそんな話を聞いたことがない。
最後、小田原城の戦いの時は、ちょっと意見の対立があったみたいだけど。
ただ、基本的には、兄弟や一門衆が、自分の分を守り、氏政を頂点として北条家を守ってきたような気がする。

◆小田原城の戦い
北条氏政を語る上で、小田原城の戦いは重要な戦い。
で、ここでもやはりというか、滅亡したこともあって、世間的には、
「小田原城の戦い=氏政暗愚=北条家滅亡」
というイメージが強いんですよ。

ただね、北条氏政って、実は・・・
「3回」
小田原城を攻められている。
「3回」というか、「3回も」というべきかは分からないけど。

1度目の相手は上杉謙信。
2度目の相手は武田信玄。
で、二人とも、籠城戦に持ち込んで勝っている。
で、3度目が豊臣秀吉だったけど、この時も同じように籠城戦に持ち込んだけど、負けてしまう。

だいたいね、上杉謙信、武田信玄と言えば、戦国最強を誇った大名ですよ。
その2人を、2人とも籠城戦で破ったという事実。
これね、北条家にとっても、氏政にとっても、強烈な成功体験だったかもしれない。
そして、小田原城は、豊臣秀吉の大軍に囲まれて開城したが、落城はしていない。
と、まー、そんなことを考えていると、籠城戦に持ち込んだのは悪くなかったかもしれない。

ただ、疑問なのは、なぜ氏政は秀吉に臣従しなかったのか、という点。
そもそも、氏政は、織田信長には臣従する姿勢を見せていた。
ところが、豊臣秀吉には、最後まで徹底抗戦している。
で、世間では、氏政が時流を読めなかったとか、アホだったからとか言われるけど、僕は、この氏政、そんなにアホだったとは思わない。
少なくとも、秀吉と戦をして勝てるとは思っていなかったと思う。

分からないけど、氏政としては、できるだけ北条家の地位を保ったまま、秀吉からもう一つ何かを引き出してから臣従しようとしたのではないか。
ところが、その駆け引きの中で、最後の最後で読み違えてしまったのではないか。
そして、最終的に、戦に引きずり込まれたというのが実際のところではないか。

ただ、当時の有力大名を見てみると、秀吉と戦った大名は意外と多い。
佐々成政、徳川家康、島津義久、長宗我部元親などがそう。
でも、滅ぼされた大名はいない。
佐々成政だけは、領地替え後に失政を咎められて切腹になるけど。
ということは、北条氏政だって滅ぼされない選択肢もあったんじゃない?

また、例えば、佐々成政、島津義久は、秀吉に降伏する際に、頭を剃って黒衣で秀吉に面会をしているらしい。
あと、伊達政宗だと、白装束の姿で秀吉に降伏している。
つまり、みんな、死を覚悟して秀吉に面会している。
しかし、北条家の場合、降伏したのは氏直。
いや、僕が知らないだけで、氏政も白装束を着て秀吉の陣に行ったかもしれないけど。。。

で、こうして見ると、みんな、往生際が悪い部分はあったけど、最後は、潔く秀吉に降伏している。
分からないけど、こういう潔い部分が、もしかしたら、氏政にはなかったのかもしれない。
で、往生際が悪くて、潔くもなければ、これって最悪。。。
こういうところも、北条家が滅亡した要因の一つかなって思うけど。
まーね、テキトーに書いたけど。。。

今回はこの辺で。

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