方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて

【原文】
これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ境を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。

【訳】
これが原因となって、諸国の人々は、ある者は土地を捨てて国を出て、ある者は家を捨てて山に住むようになった。朝廷も飢饉を鎮めるために通常の祈祷だけでなく、特別な祈祷も行ったりしたが、その効果は全くなかった。平安京のしきたりでは、何をするにしても全ての物資は地方頼みである。その地方からの物資が都に届かなくなれば、都の人たちは体裁にこだわることができるだろうか、いやできまい。
とうとう我慢をすることができなくなって、色んなお宝を片っ端から放り出すように売り払って食料と交換しようとしたが、誰も目をくれることはなかった。たまに交換に応じる者がいても、お宝を安く見積もり、食料の値を高めに釣り上げた。通りには浮浪者があふれ、飢えに苦しむ声や嘆く声が方々で聞こえた。

【わがまま解釈】
今回も、養和の大飢饉のお話。
ちなみに、このシリーズ、あと数回続きます。

まず、今回の飢饉で、諸国の人々は、

・ある者は、土地を捨てて、国を逃げ出した。
・ある者は、家を捨てて、山に住んだ。

とあるようです。
これは、食糧にありつけるなら、他国だろうが、深い山だろうが、どこへでも行くということでしょう。
そこまでしないと、生きていけないということなんでしょうね。

ここで、ちょっと余談。
平家物語に、次のようなくだりがある。
まー、僕のテキトーな訳だけど。

平家は、北陸遠征のための費用として、税の徴収権を認められていた。
そのため、逢坂関を超えてからは、行く先々で、その土地の有力者から物資を略奪していった。
その結果、街道沿いの人々は、たまらず山野に逃亡した。

と、まー、こんなことが書いてあるのね。
これは、倶利伽羅峠の戦いなど、北陸遠征に向かう平家の様子を書いているけど、平家の遠征軍がどれほど食料に困っていたかが伺えるように思う。
で、街道沿いの人々は、たまらず山野に逃亡したとあるけど、こういう形で山野に逃亡した者たちも、一定数はいたんだと思う。
もしかしたら、長明さんも、こういう事実を知っていたのかもしれない。
分からないけど、下鴨神社に送られるはずの物資が、平家によって略奪されたということもあったんじゃない?

それで、朝廷は、飢饉を収めるために、普通の祈祷だけでなく、特別な祈祷も行った。
ところが、全く効果はなかったとか。
いやー、特別な祈祷までして効果がないんじゃ、しょうがない、しょうがない。

いや、違う。
もし、蓮舫さんだったら、

「大飢饉で民百姓が困っているのに、祈祷ですか?」
「本気で、祈祷で何とかなると思っているんですか?」

って言うような気がする。

ごめんなさい、蓮舫さん。
こんなところで、こういう登場をさせてしまって。

ただ、大飢饉なんだから、朝廷だって、他に何かすることあるだろうって思うんだけど。
でも、確か、所先生が、「天皇のお仕事は、祈ることだ」って言っていた。
だとすると、祈祷をすることも、間違ってはいないのかもしれない。
ただ、祈祷だけだったら、本当に残念な気がするけど。

それで、平安京というのは、昔から、地方頼みだったとある。
これは、平安京だけで、平安京の全ての人を支えることはできないということなんだろう。
つまり、地方からの物資が来なくなると、平安京は兵糧攻めされるのと同じなわけ。
平安京の豊かさは、地方の支えがあってこそなのだ。

で、その地方から物資が届かなくなった。
すると、平安京の人々はどうなったか?
もはや体裁にこだわっている場合ではなかったらしい。

「武士は食わねど高楊枝」といっても、それにも限界があった。
いや、それを言うなら「貴族は食わねど高楊枝」だろうか。
とにかく、生きていくためには、なりふりかまっていられない状況となる。

で、生活に困った人たちは、家から色んなお宝を引っ張り出してきた。
そして、それを売り払って食糧と交換したそう。
でも、大飢饉の最中。
食べ物が手に入らないのは、みんな同じ。

いくら高価なものを持ってきても、食糧と交換すれば、その分だけは自分の食糧がなくなる。
もしかしたら、家族の食糧もなくなるかもしれない。
だから、なかなか交換に応じる者がいなかったとある。
また、たまに交換に応じる者もいたけど、足元を見て、宝物を安く見積もって、食糧を高く売りつけるということもあったとか。

最終的には、平安京の通りは、浮浪者で溢れる。
そして、飢えに苦しむ声や嘆き声が聞こえた。

いやー、もう地獄絵。
これが本当に「玉敷き都」なんだろうかって言いたくなる。
長明さん、方丈記の冒頭で、

・立派な家が、昨年、火事で焼けた。
・大きな家が、いつの間にか、小さくなっていた。

とか、家の衰退を書いていたけど、もうね、都が衰退しているよ。

で、今回はここまで。

ここからは、少し貴族の仕事について調べてみた。
ふだん、朝廷に仕える貴族は何をしているんだろう。
ネットの情報によると、次のような感じだったらしい。

・出勤する前には占いを行い、「吉」だと「出勤」、「凶」だと「欠勤」となる。
 ⇒うーん、毎日凶なら、出社しなくてもいいのか?
・勤務時間は、身分(官位)に応じてまちまち。
 ⇒身分が高いと、いわゆる重役出勤もありらしい。
 ⇒今でいう、キャリア組、ノンキャリア組で違うらしい。
・仕事は、祭り、会議など。
 ⇒祭りと言っても、本人は準備や裏方が忙しくて、ほとんど楽しめない。
・休みの日は、農作業
 ⇒意外なことに、貴族でも農作業をしていたんだとか。。。

僕は、全部が全部の貴族が働いていないとか、働いても短時間と思っていた。
ところが、貴族にも上位と下位に分かれていて、下位だとふつーに働いてる感じなんだとか。
しかも、農作業をしていた貴族もいるとかでビックリだよ。

ただ、さらに驚いたのが、朝、出勤する前の占い。
出勤を占いで決めるって、どういうこと!?
現代でも、朝のテレビは占いをしているけど、これも平安時代の名残なのか?

今回はこの辺で。

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