方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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すなはち、五十の春をむかへて、家を出て、世を背けり。

【原文】
すなはち、五十の春をむかへて、家を出て、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。
むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける。
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りをむすべる事あり。いはば、旅人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭をいとなむがごとし。これを中ごろの住みかにならぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢は歳々高く、住みかは折々に狭し。

【訳】
そんなわけで、五十歳の春を迎えたときに、出家をして世間との関係を断つことにした。私にはもともと妻子もいないので、出家することで誰かに迷惑をかけることもない。しかも、私には地位も財産もなかった。だから、執着するものがないので、出家したとしても特に問題がなかった。
というわけで、大原山(現在の京都市左京区)で出家生活をしていたが、(予想に反して)全く悟りを得ることができずに無駄に五年の年月が過ぎただけだった。
六十歳になり露が消えてしまうような晩年に差しかかった頃、残りの人生を過ごすための小さい家を建てた。例えて言うなら、旅人がたった一晩だけ泊まるためだけにわざわざ家を建て、あるいは、老いた蚕が人生の最後の日を過ごすためだけにわざわざ繭を作るようなものだ。この小さな家は、三十代の頃に建てた家と比べれば百分の一の大きさにもならない。人生というのは、いつの間にか年だけは食ってしまうが、引っ越す度に家は小さくなっていく。

【わがまま解釈】
前々回は、長明さんが、30歳あたりで、今まで住んでいた父方の祖母の家を追い出された。
そして、鴨川の河原のあたりに引っ越しをしたという話だった。
で、前回は、

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、短き運をさとりぬ。」

という話だった。
方丈記にはこの一文しかないけど、長明さん、間違いなく人生に苦しんだと思う。
でないと、方丈記なんか書かないと思う。
ていうか、多分、書けない。

で、今回は、50歳の春を迎えて出家をしたということと、60歳になってもう一度家を建てたというお話。

それで、方丈記には、30歳から60歳までの間のできごとが、全く書かれていない。
でも、全く何もなかったわけでもない。
以下、ちょっと前回とかぶるけど、あしからず。。。

47歳の頃に、和歌所寄人に選ばれている。
これ、多分、ものすごくすごいことだと思うよ。
後鳥羽上皇がね、新古今和歌集を作るに際して、当時の優秀な歌人を集めるのね。
で、長明さん、その中メンバーに追加募集だけど選ばれたのね。

長明さん、後鳥羽上皇のもとで一生懸命に仕事に励んだ。
そして、50歳の頃、後鳥羽上皇から、ご褒美として河合神社の禰宜の推薦状をもらう。
長明さん、再び、神職の道が開かれたことにうれし泣きするんだけど、同族の鴨祐兼の横やりが入って、結局、神職への道は閉ざされてしまう。
いわゆる「河合社禰宜事件」というやつ。

その後、後鳥羽上皇が、下鴨神社の末社の一つの社格を上げてでも、長明さんに神職に進むように取り計らうも、今度は長明さんがそれを断っている。
それどころか、和歌所寄人の職さえも捨ててしまった。

という流れがあって、50歳の春に出家をしている。
決して、何もないのに、突然、出家をしたのではない。

「私にはもともと妻子がいない」とあるけど、本当はいた。
ところが、30歳の頃、父方の祖母の家を追い出された時に、別れている。
だから、実質的には妻子はいないんだけど、ここでは、文章の勢いとしてこう書いたように思う。

でも、僕は思うけど、もし、長明さんが河合神社の禰宜になっていたら、妻子にも会えたかもしれない。
それどころか、出家することもなかったんだろうなって思う。

長明さん、地位も財産もないと書いてある。
確かに、神職としての地位はないし、方丈の庵で生活するぐらいだから、財産もなかったと思う。
ただ、一応書くと、従五位下の官位を持っていた。
まー、これも、7歳の頃あたりにもらったやつだから、逆に言うと、それ以降は官位をもらえなかったということになるけど。。。
とにかく、長明さんとしては、河合神社の禰宜にもなり損なって、和歌所寄人の職さえも捨ててしまって、家族もいない。
となると、もはや執着するものがなかったんだろうね。

それで、長明さん、大原で出家生活を送ったらしい。
当時、大原というのは、多くの人が出家生活をする「出家生活のメッカ」だったらしい。
ところが、長明さん、全く悟りを開くことができなかった。
ムダに5年が過ぎたとある。

それで、長明さん、この頃に、和歌所寄人で同僚だった源家長にバッタリ会っている。
もしかしたら、源家長は、声を開けずに遠くから長明さんを見ただけかもしれないけど。
ちなみに、源家長、その時の長明さんの様子を「それかとも見えぬほどに痩せ衰へて」と書いている。
「これが本当にあの長明さんか?」と見間違えるぐらいに痩せ衰えていたらしい。
分からないけど、肉体的にも精神的にも出家生活はつらかったように思う。

そして、60歳。
長明さん、いよいよ人生の最期を迎える段階になって、もう一度引っ越しをしている。
それが、方丈記のタイトルにもなった方丈の庵。
長明さんに言わせると、

・旅人がたった一晩だけ泊まるためだけにわざわざ家を建てるようなもの
・老いた蚕が人生の最後の日を過ごすためだけにわざわざ繭を作るようなもの

ということらしい。
まー、一人で生活する分には、これぐらいの大きさでちょうど良かったんだろう。
で、ここの一文が、またうまいなーって思うのね。

「旅人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭をいとなむがごとし。」

それで、気になって調べてみたら、これ、池亭記に同様の表現があるらしい。

「またなほ行人の旅宿を造り、老蚕の独繭を成すがごとし」

おそらく、長明さんは、これを利用したんだと思う。
利用したといっても、もともとは漢文だから、いわゆるコピペみたいな感じではないだろうけど。

「方丈記」と「池亭記」。
「鴨長明」と「慶滋保胤」。
作品と作者がこれほどまでに交錯するのって、とても面白い。
しかも、方丈記を読んで、「池亭記の二番煎じ」という感じもない。
テキトーに書くけど、「方丈記」は、「池亭記」を同じ路線だけど、上回っていると思う。
二つの作品を読むことで、表現方法の類似・相違、当時の平安京の様子だとか、そういうのが理解しやすいように思う。

で、今回の最後。

長明さん、方丈の庵の大きさについて言及している。
30歳を過ぎた頃に鴨川の河原に建てた家と比べると百分の一の大きさにもならないとある。
しかも、人生は、いつの間にか歳だけは食ってしまうが、引っ越す度に家は小さくなっていくとある。

これを読むと、だいぶ自虐的な表現かなって思う。
間違いなく、意識的に自虐的に書いていると思う。
まー、そうでも言わなきゃやってられんという感じかもしれない。
その一方で、正直な感想だと思う。
このあたりの表現は、長明さんにしか書けない表現かもしれない。

それにしても、毎回書くけど、長明さんがもともといた父方の祖母の家とか、鴨川の河原に建てた家とか、どれぐらい大きかったんだろうねー。

今回はこの辺で。

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