方丈記に、似た運命
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把針休息②
今回のテーマも把針休息。
というわけで、僕が適当に話を書きます。
いつも、本当に適当なことばかりですが。
ごめんなさい。
前々回に、発心集について書いた。
このお話は、貧男が、紙くずに家の絵を描いて、それを楽しむというお話。
で、このお話の中で、次のようなくだりがあった。
龍樹菩薩は、次のように言われた。
「たとえ物が豊かであっても、心が欲でいっぱいなら、それは貧しい人である。また、たとえ貧しくても、心に欲がなければ、それは豊かな人である」と。
播磨国の書写山の性空上人が書き留めた言葉には、次のようなものがある。
「片肘を曲げて枕とする。全ての楽しみはここにこそある。これ以上、浮雲のような栄華を求めてどうするというのだ」
また、こういう話もある。
中国に、ひとりの琴の師匠がいた。そして、弦のない琴をいつもそばに置いていた。ある人が不思議に思って理由を聞いた。
すると、その琴の師匠は「自分は、琴を見ると、曲が心に浮かんでくるんですよ。だから、自分にとって、琴を見ることは琴を弾くことと同じなんですよ」と答えた。
それで、貧男が、紙くずに家の絵を描いて、それを楽しむということについて、いいねというお話かと思った。
これこそが究極の楽しみ方だ、みたいな感じで。
最後には、はかない楽しみにすぎない、というトーンで終わるけど。
で、前回は、この話が、禅と似ているとかどうとか書いた。
で、今回も、その続き。
正直、大した話ではない。
曹洞宗の大本山の永平寺。
ここでは、修行体験ができるらしい。
ちなみに、僕は、永平寺に二回行ったけど、修行体験はしていない。
行って、観光しただけ。
で、この修行体験、参籠(1泊2日)と参禅(3泊4日)の2つがある。
期間が長い分だけ、参禅の方が厳しいらしい。
実際に、雲水さんたちと同じ日常生活をするんだとか。
そして、何よりビビってしまうのが、
「特に厳格である為、興味本位で上山すると挫折します」
という一言。
うーん、まじか。。。
だいたい、○○体験なんて、そんなに大したことはない。
しかし、永平寺の修行体験は、どうも違うらしい。
で、これは、どこかで聞いた話。
この参禅をすると、永平寺のお坊さんとお話をする機会があるらしい。
えらいお坊さんの説教話を聞いたりとか。
参禅の記念として座談会をしたりとか。
永平寺としても、せっかくきてくれてくれた参禅者に、なにか心に残るプレゼントをしたいのだろう。
それで、老師を囲んでの座談会にて。
老師が、一枚の白い紙を出してきた。
それを見て、「雲が見える」と言う。
どういうことか、分かりますか?
僕は、まーったく分からなかった。
「紙」と「雲」
共通するのは、「白い」ということ。
紙を見て、雲でも思い浮かべたか?
ぐらいにしか思わなかった。
もちろんだけど、これ、完全に、凡人の発想。
夏井先生なら、間違いなく「凡人」と言うだろう。
答えは、「自然の恵みに気付いていますか?」
ということだそう。
紙の原料は、木ですね。
その木は、雨が降らないと育たない。
その雨を降らせるのは、雲。
しかも、木が育つには、長い年月が必要。
つまり、たった一枚の紙でも、それができるためには、自然の恵みの積み重ねが必要ということ。
それが、「雲が見える」なんだそう。
うーん、恐れ入った。
とても、そんな発想、思い付かなかった。
しかも、この話、続きがあった。
今度は、
「パンが見える」
と言ったらしい。
そんなバカな!?
いくらなんでも、パンが見えたりするか!
いや、一応、僕も、色々と考えたよ。
パンを包む紙かなーとか。
紙とパンで紙パンツとか。。。
これ、答えは、木を切った労働者が昼に食べた「パン」なんだとか。
おいおい、ご飯だったらどうする?ご飯だったら?
これ、言いたいのは、たった一枚の紙を作るためには、自然の恵みの積み重ねが必要だって、さっき書いた。
でも、これだけじゃ足りなくて、紙ができるまでには、多くの人の労働が必要。
つまり、たった一枚の紙も、労働の賜物ということ。
こういう発想がないとお坊さんにはなれないかと思うと、僕には絶対無理だって分かった。
それで、僕は、「貧男、差図を好む事」を読んだ時に、この話を思い出したのね。
共通するのは、紙を通して何かが見えるということ。
貧男は、紙に描いた家で、本当の家を見て、心を和ませていた。
今回の話では、一枚の紙から、自然の恵み、労働のありがたみを見た。
それ以外は、特に共通することもない。
ただ、二つの話は、そのものと一つになるという意味では、同じではないかと思ったりする。
いや、あくまでも、僕が勝手に書いているだけ。
もしかしたら、どこかのえらーい老僧に「適当なことを書くな」って怒られるかもしれないけど。
「鴨長明は、全く悟れていないだろっ!」とかね。
前回、今回と、二回にわたる雑談でした。
大変失礼しました。
今回はこの辺で。
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