方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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右大臣実朝②

◆その日、鴨長明は、飛鳥井雅経の案内で、源頼朝のお墓にお参りをしました。
その後、酒の席が開かれたのですが、鴨長明は、ただ、ポカーンとしているだけで、実朝公から酒をそそがれても、盃にちょっと口をつけただけでそのまま下に置いてしまい、それで、やはりポカーンとしてどこを見ているのかも分からない感じでした。
あれほど有名な方なので、それはもう目力もあって、とても品がも良くて、一つ一つの動きが堂々としているに違いないと、私などはてっきりそう思っていたのですが、実際はそうではなくて、見た目はぽっちゃりで背も低くて、見どころもない下品な田舎ジジイで、顔はサルのように赤く、鼻は低いし、頭は禿げているし、歯も抜け落ちており、しかも一つ一つの振る舞いに落ち着きがなく、このような者なのに、なぜ、後鳥羽院からの評価が高いのかが、私にはそれが全く理解できませんでした。

※ここからが、いよいよ、太宰治の想像の世界となる。
それにしても、長明さんの描かれ方、ひどくない?
だってね、これじゃあ、完全に変なおじさんじゃない?

「だっふんだあ」でも言ってろっ!

って感じじゃなじゃない?

いや、僕も、右大臣実朝を最後まで読んでないし、本当は、何か意味があるのかもしれないけど。
いや、ないかもしれないけど。
どうして、太宰治は、こういう設定にしたんだろう。。。

分からないけど、長明さんの不思議な魅力を引き出したかったのではないか。

長明さんの和歌の腕前は、遠く東国にまで届いていた。
東国の人間にとって、都人のイメージは、

「都人=優雅、美しい、風流」

だったと思うのね。

それがさ、何をしてもポカーンとしている。
見た目は、ぽっちゃりで背も低い。
顔はサルのように赤くて、鼻は低くて、頭は禿げていて、歯は抜けている。
しかも、落ち着きがない。

で、後鳥羽院からの評価が高い理由が分からなかった、とある。

僕でも、こんな人を見て、「実は、すごいお方なんですよ」と言われても、信じられない。
ていうか、見た目で完全アウト。
「見た目はぽっちゃり」ってあるけど、源家長が大原で長明さんに会った時は、「これがあの長明さんかというぐらいに痩せ衰えていた」とあった。
ぽっちゃりではなかったと思うけど。。。

◆それで、実朝公もどこか緊張した感じはありながらも、丁寧な様子で「都の話でもしてくださいませんか?」と話かけたりもしたのですが、鴨長明はうまく聞き取れなかったのか「はっ?」と言うばかり。
それから慌てて、「最近は、都のことは全く分かりません」と低い声で答えると、やはりまたポカーンとするだけでした。
これに対して、実朝公は特に何も言いませんでしたが、ゆったりした様子で少し笑みを浮かべて、「世捨て人になった気持ちはいかがですか?」と尋ねたのですが、ここでも、鴨長明はうまく聞き取れなかったのか「はっ?」と言うばかり。
しかも、突然下を向くと、口の中で何かを激しくつぶやいていましたが、突然、顔を上げたと思ったら「恐れながら申し上げます。魚の心は、水の底に住んでみなければ分かりません。鳥の心も、木の上で生活しないことには分かりません。世捨て人の気持ちも全くこれと同じで、全てを捨てて、方丈の庵で生活をしてみないことには分かりません。その神髄を、今、ここで私が申し上げても、理解することは難しいかと思います」と、さらさらと申し上げました。

※どうでしょうかね。
いくら物語とはいえ、長明さん、だいぶ可哀想な書かれ方。
なんか、本当に残念な奴という書かれ方じゃない?
ちゃんと話聞いているのかと疑いたくなる。

あえて、あえて、僕の独断と偏見で書くと、ホンマでっかの門倉先生のような感じがしないでもない。
門倉先生、ごめんなさい。
決して、僕は、門倉先生、嫌いじゃないので。
しかも、門倉先生のブログにも、右大臣実朝の話があった。
門倉先生も、太宰治や鴨長明が好きなのかもしれない。
そう思うと、僕は、門倉先生に対して、妙に親近感がわいた。

ただ、「恐れながら申し上げます」以降の鴨長明の会話は、鴨長明の本領発揮といった感じがする。
特に、魚と鳥の話は、方丈記にも同じような話があった。
このあたりは、方丈記と合わせて読むと、面白いかもしれない。
特に、今まで、ポカーンとしてばかりの長明さんが、急に、まともな受け答えをするんだから、長明さんの印象は一気に変わる。

◆それに対して、源実朝は、特に表情を変えることもありませんでした。
そして、少し微笑んで「全てを捨てることは」と言ってうなずかれると、「できましたか?」と少しだけ早口で尋ねました。
私は、てっきり、またあの「はっ?」が出ると思っていたのですが、鴨長明は即座に「そうですね」と言うと、次のように答えました。
「物欲を捨てることはそれほど難しいことではなく、易しいでしょう。しかし、名誉欲を捨てることは、これはなかなか難しいことです。昔の古い書物にも、「出世の名声は、血で血を洗うが如し」とありますが、この名誉欲というのは、金欲の心よりもはるかにみにくくて恐ろしいもので、こればかりはどうしようもできないものです。せっかく、今、良い質問を受けたので、私が日頃思っていることを正直に申し上げると、私は、世捨て人とは言いながらも、この名誉欲を未だに捨てることができずにおります。姿形こそは聖人のような恰好をしていますが、心は満たされておらず、不平不満が溜まって濁りきっております。また、今は、人里を離れて山の中で生活していますが、夜になれば人恋しくなり、これが、自分が卑しくて貧しい身であることから出てくる悩みなのか、はたまた、単に自分が狂っているだけなのか、そんなことを自問自答するわけですが、やはり答えは見つかりません。南無阿弥陀仏とお念仏を唱える意外に、もはや我が身を救う手立てはありません。」
鴨長明は、このように答えられましたが、顔には動揺した表情もなく、むしろ自分の思うところをサラサラ言い終えると、やはりポカーンとしていました。

※ここの部分は、方丈記では、かなり重要な部分。
そして、ここの鴨長明の会話の部分は、基本的には方丈記をそのまま訳した形になっている。
太宰治も、この場面を書くに際して、方丈記を何回も何回も読んだと思う。

そして、太宰治は、源実朝の作品を書くのが夢だったらしいけど、鴨長明に対しても親近感を抱いていたのではないか。
太宰治は、方丈記も、好きな作品ではなかったのか。
特に、方丈記の最後の場面は、心動かされるものがあったのではないか。
だから、太宰治は、方丈記の内容を鴨長明に語らせるような設定にしたのではないか。

方丈記には、次のような一文がある。

すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を迷わせること三十余年なり。その間、折々のたがひ目、自ずから、短き運をさとりぬ。

だいたいが生きにくい世の中を、我慢を重ねて、心を悩ませながら30年以上生きてきた。その間、節目節目で挫折を繰り返し、自分の人生の運のなさを感じた。

太宰治も、これに似たような感覚ではなかったか。
太宰治は、源実朝を書こうとしたらしいけど、鴨長明のことも書きたかったのではないか。
つまり、鴨長明に自分の分身を託すみたいな部分もあったのではないかと思う。
どう見ても、太宰治は、源実朝ではない。
むしろタイプで言えば、鴨長明だと思う。

ただ、この作品では、名誉欲について書いてある。
ところが、方丈記には、この部分に名誉欲に関する記述はなかった。
なかったよね?多分。。。

ということは、太宰治のオリジナルなのか。
長明さんにも、名誉欲はあったと思う。
実際、60歳にもなろうという人間が、源実朝の和歌の師匠になろうとするのは、やはり名誉欲があったのではないか。

太宰治も、芥川賞が欲しくて何度も挑戦するも、結局、芥川賞を受賞することはできなかった。
しかも、芥川賞の選考委員に頼み込んでまでして、失敗している。
長明さんも、河合神社の禰宜になり損なっている。
しかも、後鳥羽上皇の推薦がありながら、失敗している。

太宰治と鴨長明は、ダメ人間という部分で重なったのかもしれない。
そして、地位や名誉を手に入れることができなかった部分でも、さらに重なったのかもしれない。
なんてことを思いながら、この文章を読むと、太宰治も、長明さんと同じような苦しみを感じていたのだろうか。

今回はこの辺で。

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