方丈記に、似た運命

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父方の祖母の家を追い出される②

前回からの続き。

長明さん、父方の祖母の家を追い出された。
で、次に住んだのが、鴨川の河原だった。
ということは、下鴨神社からもそんなに遠くはない。
むしろ、すぐそこぐらいか。

それで、長明さん、新しく引っ越した家のことも書いている。
ちょうど、前回の原文のすぐ後にあるのね。

【原文】
これを、ありし住まひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりを構へて、はかばかし屋をつくるに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門をたつるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし。

【訳】
これを、今まで住んでいた父方の祖母の家と比べると、大きさは10分の1である。
自分が寝起きするだけの部屋を作るだけで精一杯で、他の部屋を作ることはできなかった。何とか土塀は築くことはできたが、門を立てるだけの資金は残っていなかった。竹を柱として、そこを車(牛車)を入れる駐車場とした。
雪が降り、風が吹くたびに、危険が発生した。建てた家が鴨川の河原に近いため、水害の心配が絶えることなく、また、盗賊に襲われる心配もあった。

読んでみて思うのが、おばあちゃんの家が大きかったということ。
父方の祖母の家は、今住んでいる家の10倍の大きさがあったらしい。
しかも、後に、長明さんは、方丈の庵を建てる。
で、この方丈の庵の大きさは、鴨川の河原の家と比べると100分の1だった。
ということは、おばあちゃんの家は、方丈の庵の1000倍となる。
とにかく、おばあちゃんの家、でかかったらしい。
IKKOなら「どんだけー」って叫ぶところか。

ただ、平安時代、貴族の家は、寝殿造りだと日本史で習った。
で、寝殿造りってなんだっけ?
いや、何となくは分かるんだけど。。。
それで、困った時はインターネットに全頼りということで調べてみた。

・建物は主人の家が中心で、建物は大きく、その中は部屋で区切られていない。
・外装が派手。
・庭と池がある。

だいたいこんな感じ。
そして、一番分かりやすいのは「平等院鳳凰堂」。

長明さんの父方の祖母の家も、こんな感じだったのだろうか。

長明さん、父方の祖母の家を追い出されると、鴨川の河原に家を建てる。
調べた範囲では、昔から、鴨川周辺の土地は、加茂氏の本拠地とある。
おそらく、鴨一族、下鴨神社が、鴨川周辺の土地を支配していたのだろう。
そういうのがあって、長明さん、鴨川の河原に家を建てたのかもしれない。

ところが、原文を読む限り、そこでの生活は大変だったとある。

・今の家は、以前の家と比べて10分の1の大きさである。
・土塀は作ったが、門を作るだけのお金がなかった。
・駐車場は竹で作ったぼろいものだった。
・雪が降ると大変だった。
・風が吹けば、家が倒れそうになる。
・水害に遭う危険がある。
・盗賊に入られる危険もある。

つまり、資金不足で、立派な家を建てることができなかった。
まー、風が吹いたぐらいで倒れるような家はどうかと思うけど。
ただでさえ、川岸って風が通りやすいわけだし。
ただ、平安時代は、一般市民の家は、もっと低レベルだったということを聞いたこともある。
こんな家でも、まだマシだったのかもしれない。

今だと、鴨川って、有名な観光スポットだったり、憩いの場としてのイメージしかない。
ところが、当時の鴨川は、暴れ川として有名だった。
そして、平安京は、いつも水害に悩まされていた。
今でも、地図を見ると分かるけど、平安京は、桂川と鴨川に挟まれている。

どういう理由で、ここを都にしたんだろうか。

しかも、桂川もよく氾濫していたらしい。
慶滋保胤が書いた池亭記には、平安京は、右半分は衰退していたとある。
そう、すでに平安時代中期の時点で、平安京は半分しか機能していなかったのだ。

で、次に、鴨川。
池亭記によると、鴨川も氾濫を繰り返していた。
それで、堤防が壊れる。
そのため役人が堤防を造り直すんだけど、一旦、造り直したら後はしらんぷり。
堤防が壊れて、鴨川周辺の人々が魚のように水を浴びても、役人は何もしない。
しかも、朝廷は、一般市民が勝手に鴨川周辺の工事をすることを禁止している。
だから、水害が起こるのは当然だった。

こんなことが、池亭記には書かれてある。

それで、平安時代後期になると、鴨川周辺は、新興住宅地のような性格があったらしい。
おそらく、右京の人々が、左京に押し寄せたのではないだろうか。
もちろん、外から入ってきた人もいたとは思うけど。
ところが、きちんと整備がされた土地ではないので、つねに河川の氾濫の心配があったらしい。
聞いた話では、平安京を建設する際に、周辺の山から木を伐採したために、山が治水の役目を果たさなくなり、それが鴨川の氾濫につながったという説もあるらしいけど。。。

長明さん、最後に、盗賊に入られる危険があると書いている。
これ、一番困ることだと思うけど。
だめだよ、そんなとこに住んだら。

長明さんが、鴨川の河原に引っ越しをしたのは、1184年ぐらいだとか。
当時、平安京は、大変なことになっていた。
五大災厄と源平の戦い。
ただでさえ、都は、五大災厄によって衰退していた。

しかも、飢饉の最中に、平安京では、源平の戦いが起きる。
もう治安もくそもへったくれもなかった。
平安京は荒れ放題だった。

後白河法皇が、木曽義仲に都の治安を取り戻すように命令をするけど、その木曽義仲の家来たちまでが治安を乱している。
もう、手の付けようがなかった。
さらば、平安京。

で、このタイミングで、長明さんは、鴨川の河原に引っ越しをしたのね。
うーん、タイミング悪かったね。
これもまた、長明さんの運のなさだろうか。。。

今回はこの辺で。

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