方丈記に、似た運命

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平家物語~平家にあらずんば人にあらず

今回は、平家物語から。
「平家にあらずんば人にあらず」について。

このセリフ、まーまー有名なセリフ。
多分、知っている人も多いと思う。
もともとは、平家物語の中の平時忠のセリフだった。
平清盛ではなかったのね。

それえ、意味としては、

「平家でなければ、人でない」

といった理解が一般的だと思う。

これは、おごる平家、高ぶる平家を象徴する有名なセリフ。
もし、今の時代に、こんなことを言えば、間違いなく炎上すると思う。
僕なんかでも、「こんなこと言うから、平家は滅ぶんだよ」と言いたくなる。
この発言もあってか、平家よりも源氏の方が人気があったりもする。

この「平家にあらずんば、人にあらず」。。。

本当は、そういう意味ではないらしい。
少なくとも、「平家でなければ、人ではない」というのは違うらしい。
いや、これは、僕も知らなかった。
正直、驚いた。

平家にあらずんば、人にあらず。
 ↓
平家でなければ、人じゃない。

これ以外に、どういう訳がある?

それで、調べてみると、平家物語には、次のように書かれてあるらしい。

「この一門にあらざむ人は、みな人非人なるべし」

これだと、僕なんか、「平家一門でなければ、人間以下である」となってしまう。
むしろ、もっと表現がおごり高ぶってしまう。
これは、まずい。。。

そもそも、ポイントは「人非人」の部分。
これを、人間以下としてしまうのが、おかしいらしい。
この「人非人」だけど、意味としては、

・身分の低い者
・みすぼらしい者
・卑しい者
・取るに足らない者

といった意味合いだそう。

つまり、「平家にあらずんば、人にあらず」は、「平家一門でなければ、身分の低い者になってしまう」といったところ。
もう少し訳すと、平家一門でなければ、高い地位を得ることができないとか、出世することができない、といったところだろうか。
平時忠は、決して、平家一門でない者を見下した発言ではないらしい。

それで、少し脱線するけど、平時忠のことが気になった。
で、この方、平氏ではあるけど、平家ではなかった。
うーん、分かりにくい。

これ、まず、平性の集団を平氏と言うわけだけど、その中にも色々なグループがあった。
で、当時は、平清盛を中心とするグループを平家と呼んでいたらしい。
一方、平時忠は、堂上平氏とか堂上家と呼ばれるグループに属していた。
で、面白いのは、この堂上家、家の格は、平家よりも上だった。

つまり、同じ平氏でも、

平時忠(堂上家) > 平清盛(平家)

だったらしい。

ところが、保元・平治の乱で、平清盛率いる平家一門が、一気に出世街道を駆け上がった。
しかも、博多、厳島、福原と港を整備して、瀬戸内海を支配すると、日宋貿易で巨万の富を得る。
軍事力と経済力はあった平清盛だけど、家の格が低かった。
一方、家の格は高くても、それ以外に特筆すべき点がないのが、平時忠。
で、二人の思惑が一致したのか、妻が病死していた清盛は、後妻に平時忠の姉・平時子を迎い入れる。
その結果、二人の関係は、義理の兄弟となる。

これによって、平清盛は、名実ともに政権の頂点に立つ。
一方の、平時忠も、平家一門の威光を得て、出世することになる。

「平家にあらずんば人にあらず」

もしかしたら、平時忠、こういった状況を踏まえた上で「堂上家として家格が上だった私ですら、下級貴族の平家一門によって、今の地位がある」ということを言いたかったのかもしれない。
「今の世の中は、平家一門でなければ、出世はできないですなー」というぐらいで、当時の一般論を語ったぐらいだろうか。

ただ、平家物語の影響で、平家一門、平時忠のイメージは悪くなっただろう。
平清盛なんか、今でも悪者にされているし。
平時忠だって、周囲から、ひがみやっかみがあったかもしれない。

「堂上家として、一応、中級貴族なのに、下級貴族の平家の下についてまで出世したいか?」
ぐらいには、思われていたかもしれない。
「おいおい、あいつは、いつから平家の犬になった?」みたいに。

それで、この「人非人」という表現。
実は、長明さんの無名抄の中にも出てくる。

無名抄と言うのは、長明さんが書いた和歌の教科書。
で、その中に、琵琶の師匠だった中原有安から教えを記した部分がある。

【原文】
ここかしこの人非人がたぐひに連なりて、人に知られ、名を挙げては、何にかはせむ。心にはおもしろくすすましく覚ゆとも、かならず所嫌ひして、やうやうしと人に言はれむと思はるべきぞ。

【訳】
その辺の取るに足りない連中が参加するような歌会に参加することで、歌人として人に名前が知られて、名を挙げることができたとしても、そんなことは大したことではない。
それよりもその歌会に気乗りしていたとしても、必ず場所というものを選ばなければならない。
そして、周囲の人間から、「歌会を選ぶようになったとは、あいつ(長明のこと)も立派な歌人になったな」と思われるようにならなければならない。

いやー、これ、原文だけでは、全く意味が分からない。
古典の授業なんか、こういうのを訳させて終わりだから、面白くないんだろうねー。

中原有安は、和歌や音楽を志す者が陥りやすい落とし穴を忠告したのかもしれない。
あるいは、長明さんの性格を見抜いていたのか。

しょーもない歌会に参加して、経験を重ねても意味がない。
そこで「俺って、すごいだろっ!」と言っても、本当にすごいことではない。
むしろ、ちゃんとした歌会に参加して「あいつも歌会を選ぶぐらい、すごい奴になった」と言われる方が、本当にすごいことである。
本当にすごければ、片っ端から歌会に参加して、自分からアピールする必要もなく、自然と周囲の者には分かると。

で、ここの「人非人」。
「その辺の取るに足らない者たち」と訳してある。
おそらく、平時忠も、こういうニュアンスだったと思われる。
「人非人」の理解の仕方として、分かりやすいのは「凡人」あたりだろうか。

今回はこの辺で。

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