方丈記に、似た運命
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歩み煩ひなく、志遠くいたる時は、これより峰続き、炭山を越え、
【原文】
歩み煩ひなく、志遠くいたる時は、これより峰続き、炭山を越え、笠取を過ぎて、或いは岩間に詣で、或いは石山を拝む。 もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡を訪ひ、田上川を渡りて、猿丸大夫が墓を尋ぬ。帰るさには、折につけつつ、桜を狩り、紅葉をもとめ、蕨を折り、木の実を拾ひて、かつは仏に奉り、かつは家土産とす。
【訳】
歩くのが苦でなくて遠出をしたい時には、峰続きに歩いて、炭山を越えて笠取山を通り過ぎて、岩間(正法寺)にお参りしたり、石山寺にお参りしたりもした。また、粟津の原を踏み分けて歩き、蝉歌の翁と呼ばれた蝉丸が住んでいた跡地を訪ねたり、田上川を渡って猿丸大夫の墓を訪ねたりした。帰り道は、春には桜狩りをしたり、秋は紅葉拾いをしたり、蕨を折り採ってみたり、木の実を拾ったりもした。それらは仏様へのお供え物になったり、自分の家に持ち帰るお土産になったりもした。
【わがまま解釈】
今回は、遠出をした時のお話。
長明さん、決して、方丈の庵でじっとしているような人物ではない。
色々と歩き回るのが好きなのね。
前回も、10歳の子どもと遊ぶという話だった。
よっぽど元気でないと60歳前の人間が、10歳の子どもの相手はできないと思う。
肉体的にも精神的にも若くないと。
もちろん、子どもが好きでないと。
源家長の日記のせいか、長明さんは引きこもりのイメージがある。
でも、実際は、そうでもなかった。
けっこう色んなところに行っている。
方丈記の五大災厄の話も、都を歩き回って情報収集をしたからだと思う。
福原遷都の際には、わざわざ福原まで行っている。
さらに、伊勢にも旅行したとある。
さらには、60歳前にして源実朝に面会するため鎌倉にも行った。
しかも、その時は、関東で水害があったとかで、わざわざその現場を見たとも伝わる。
長明さん、好奇心が旺盛なのかもしれない。
とにかく、自分の目で見て、自分の足で稼ぐのが好きなのだ。
フリーのルポライターみたいな感じ。
で、長明さんんが、どのあたりを遠出したかが書かれている。
ざっと、次のような感じ。
方丈の庵(京都府京都市伏見区日野)
↓
炭山(京都府宇治市炭山)
↓
笠取山(京都府宇治市笠取)
↓
岩間(正法寺)(滋賀県大津市石山内畑)
↓
石山寺(滋賀県大津市石山寺)
↓
粟津の原(滋賀県大津市粟津)
↓
蝉丸の庵(滋賀県大津市)
↓
猿丸太夫の墓(滋賀県大津市大石曽束)
距離で言うと、20kmから30kmぐらいだろうか。
範囲で言うと、今の京都府から滋賀県にかけての範囲。
分からないけど、休憩をしながら、朝出発して夕方に帰るという感じだろうか。
ただ、60歳の人間には、まーまーこたえる距離だと思うけど。
しかし、この遠出も、ちょっとした修行を兼ねての遠出とするなら、そこまで苦でもないかもしれない。
これを、地図で確認すると、次のようになる。
で、行く先々で景色を楽しむ。
春は桜を眺める。
秋には、紅葉を眺めて、落ち葉を拾ってみる。
木の実なんかも拾ってみる。
で、普段お世話になっている人に分けたり、色々と土産話をしたのだろう。
長明さん、ちょっとした旅行ソムリエだったかもしれない。
最後に、長明さんの遠出のスポットを書きます。
あまり大したことは書けないけど。。。
◆炭山
日野氏の菩提寺である法界寺の近くの地名。
ここに方丈の庵の跡ではないかと言われる方丈石がある。
現在では、散策ルートとしてきちんと整備もされているとのこと。
長明さんと同時代を生きた平重衡のお墓もこの付近にある。
◆正法寺と石山寺
いずれも西国三十三か所に数えられる寺院。
しかも正法寺は、いくつかの御利益があるけど、その中に「ぼけ封じ」を見つけた。
僕も、だいぶぼけてるから、そろそろ行っといた方が良いかも。。。
石山寺は、古くからいくつかの文学作品に登場するぐらい有名な寺院だったらしい。
特に、紫式部は、石山寺で参籠をしていた時に、源氏物語を思い付いたとか。。。
◆粟津の原
いわゆる源平の戦いの粟津の戦いが行われた場所。
一時は、都から平家軍を追い出し、無双を誇った木曽義仲。
上洛後は、都の治安回復に失敗したことから後白河法皇と仲たがいをする。
都落ちした平家軍に大敗を喫し、都にも戻れない状況で、攻め上ってきた東国軍を迎え撃つも大敗をする。
平家物語では、木曽義仲は、この地で腹心の今井兼平とともに討死をしたとある。
◆蝉丸
平安時代の歌人で、盲目の琵琶の名手。
適当に書いて悪いけど、ある意味、百人一首で人気ナンバーワンだろうか。
ちなみに、百人一首にある和歌はこれ。
「これやこの 行くも帰るも わかれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」
今回はこの辺で。
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