方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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父・長継の死と斜陽②

前回からの続き。

長明さん、父・長継を失ってから一年が過ぎた。
そして、次のような和歌を詠んだ。

【原文】
春しあれば 今年も花は 咲きにけり 散るを惜しみし 人はいずらは(鴨長明集)

【訳】
父が死んで翌年の春、再び、今年も桜の花が咲いた。
それなのに、桜の花が散ることをあれほど惜しんだ父はどこに行ってしまったのだろう。

桜の花を見て、長明さんはお父さんのことを和歌で詠んでいる。

ところで・・・

「長明さん、お父さんのこと、まだ引きずってる?」

って思わなかったですか?
いや、「あー、もう一年過ぎたか」と思うぐらいならいいのよ。
ただ、長明さんの場合、どうもそういう雰囲気でもないような気がする。
いや、分からないけど。。。

分からないのよ。
本当に分からないけど、長明さん、多分、お父さんの死から立ち直れていないような気がする。
しかも、長明さんには妻も子もいた。
妻子ある身となれば、家族を養う責任があるはず。
一生懸命働いて、家を支える責任があるはず。
ところが、長明さん、どうもそういう感じではなさそうなのね。

長明さん、お父さんの死から、全く立ち直れていなかった。
それどころか、ますます気分は沈んでいった。
今でいう鬱だったのかもしれない。
とにかくふつーではなかった。
それで、ちょうどその頃に、長明さんが詠んだといわれる和歌がある。
それがこれ↓

【原文】
あはれとも あだにいふべき 嘆きかと 思ふか人の 知らず顔なる(鴨長明集)

【訳】
みんなは、「気の毒で」とか「残念」といった社交辞令的な文句で片付けてしまう。
誰も私の心の内を分かってくれない。
誰も私の心の中の深い悲しみを、分かろうともしないし、知ろうともしない。

これ、原文を読んでもよく分からなかった。
ただ、訳を読むと、よーく分かった。
長明さん、相当、お父さんの死を嘆き悲しんでいる。

多分だけど、周囲の人たちも、長明さんのことは気にしていたと思う。
周囲の人たちも、「お父さん、残念だったね」とか「元気出しなよ」ぐらいは言ったと思うよ。
でも、長明さんからすると、単なる社交辞令としか受け取れなかった。

「嘆き悲しむ自分を、誰も受け入れてはくれない」

そう感じたんだと思う。

でも、まー、そうだと思う。
だいたい、他人というのは、人の不幸に対してそんなに興味があるわけではない。
場合によっては、人の不幸を楽しむ者もいる。
世間というものは、いつの世も世知辛い。

僕の想像だけど、下鴨神社の正禰宜惣官だった父には、多くの取り巻きがいたと思う。
長明さんの父の恩恵にあずかった者もいたはず。
そして、その者たちは、長明さんにも「お父さんの様に立派な神職になれるといいねー」みたいなことを言っていたんじゃないだろうか。
「長継様に可愛がられた者として、その子である長明さんにも尽くします」みたいに。

ところが、父・長継の死後、長継を支えてきた者たちは、みんな去って行った。
一人欠け、二人欠けして、最終的に、父・長継に仕えた者で、長明さんに仕えた者はいなかったのかもしれない。
この和歌には、人間の心変わりも含まれているのかもしれない。

ちょっと、書きすぎたかもしれないけど。
基本、僕は、無責任にテキトーに書いているだけなので。
ごめんなさい。。。

ここで、僕は、方丈記の中にも主従関係について記した部分があることを思い出した。
人間というのは、正直さ、思いやりといったことは重要ではない。
主人は、従者に対して褒美を与えることが重要で、従者はたくさん褒美をくれる主人に付きたがるものだ。
そんなことを書いていた。

この部分については、当時の一般的な主従関係を書いたのかもしれない。
でも、自分の体験による部分もあったのではないか。
もしかしたら、この部分を書くにあたって、父・長継の死後、出世競争に敗れた自分から多くの者が去っていったこともあったなーと、思い出すこともあったのではないか。

父・長継は、亡くなった兄の跡を継いで、若くして下鴨神社の正禰宜惣官に上り詰めている。
そして、10年以上、正禰宜惣官を務めたという。
ところが、晩年は、体調不良となり、同族の鴨祐季が長継の代理を務めていた。

で、テキトーに書くけど、父・長継の心境としては、秀吉の最期に近いものがあったのではないか。
死を目前とした秀吉が、「わが子秀頼を頼む」とみんなにお願いをしたあの心境。
で、家康をはじめ、家臣たちは「必ず、秀頼さまを、豊臣家を守ります」と。
父・長継も、正禰宜惣官代理の鴨祐季に、同じようなことを託したかもしれない。

ところが、この鴨祐季は、延暦寺との土地争いで敗れてしまう。
その結果、鴨祐季は、下鴨神社の正禰宜惣官の地位を退くことになる。
そして、下鴨神社の次の正禰宜惣官の地位を、鴨長明と鴨祐兼の二人が争う。
ところが、父を失った鴨長明に味方をする者はなく、鴨祐兼が下鴨神社の新しい正禰宜惣官となる。
このあたりは、豊臣恩顧の大名の多くが、秀吉の死後、徳川家康に従ってことと重なるかもしれない。

しかも、余談だけど、鴨長明と鴨祐兼。
悪縁だったのか、鴨祐兼は、いつも長明さんの邪魔をする。
長明さんが、鴨祐兼をどう思っていたかは分からないけど、あまり良いようには思っていなかったんじゃないだろうか。

源家長日記によると、長明さんは、「みなしご」と書かれてある。
このことは、今までに何回も書いたけど、当時の人にはそう映っていたのだろう。

また、長明さんの作品の一つ・無名抄の中にも、次のような文章がある。

「そこなどは重代の家に生れて、早くみなし子になれり」

これは、長明さんの音楽の師匠だった中原有安の言葉。
意味は、お前は、下鴨神社の家系に生まれて、早くに孤児となってしまった、といったところ。
ここでも、みなしごと書かれている。
ただ、中原有安は、長明さんに対して、色々と教えを伝授している。
きっと、長明さんのことを気にかけていたんだと思う。

また、長明さんの和歌の師匠は、俊恵法師という人物で、この方は東大寺のお坊さんだった。
しかも、この方も、17歳の時にお父さんを亡くしている。
もしかしたら、長明さんと同じ境遇ということで、長明さんの良き理解者だったかもしれない。

そんなことを思うと、長明さん、決して、理解者がいなかったわけでもないように思う。
また、長明さんが、和歌や音楽に走ったのも、師匠が良き理解者だったということもあるのかもしれない。
まー、僕が、勝手にそう思っているだけだから。。。

今回はこの辺で。

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