方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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社家の子として生まれて

今回は、長明さんの小さい頃のお話を。

長明さんは、下鴨神社の正禰宜惣官だった鴨長継の次男として生まれている(らしい)。
1155年だった。
次男ということは、兄がいたことになるけど、兄の記録はほとんどない。
理由は分からない。
若くして亡くなったか、記録するほどの人物ではなかったのかもしれない。

ちなみに「鴨長継」だけど、「かものながつぐ」と読む。
そして、長明さんは、「鴨長明」と書いて「かものちょうめい」と読む。
うーん、おかしいと思いませんか?
思うよね?
じゃー、話を続けるね。

すみません。
サンドイッチマン風に読んでもらうと、大変ありがたいです。。。

つまり、「長」の字の読み方。
お父さんの長継が「ながつぐ」と読むのなら、長明さんは「ながあきら」と読むのがふつーのはず。
そして、これが正解。
世間では、「鴨長明」と書いて「かものちょうめい」と読むけど、本当は「かものながあきら」なのね。

ちなみに、このブログでたまに出てくる源家長日記。
源家長が書いたから源家長日記。
そのまんまだけど。
そこには、「ながあきら」と書かれている。

で、こういう読み方を有識読みと言うらしい。
有識読みというのは、人の名前を「音」で読むことらしいけど、これではよく分からない。
それで、手っ取り早く、有識読みされる有名人を拾ってきた。
多分、これを見た方が、有識読みが分かりやすいと思う。

     一般的な読み方(有識読み)  本来の読み方
三好長慶   みよしちょうけい     みよしながよし
木戸孝允   きどこういん       きどたかよし
藤原定家   ふじわらのていか     ふじわらのさだよし
安倍晴明   あべのせいめい      あべのはるあき
伊能忠敬   いのうちゅうけい     いのうただたか

それで、下鴨神社の正禰宜惣官の次男として生まれた長明さん。
名門社家の御曹司として、大切に育てられたのではないか。
二条天皇の奥さんだった高松院から寵愛を受けたらしく、7歳で従五位下の位をもらっている。
ちなみに、従五位下という位は、これより上の位が貴族として認められるボーダーライン。
つまり、長明さん、7歳にして貴族の仲間入りをしている。

で、これがどうやら凄いらしい。
長明さんの父・長継は、22歳で従五位下の位となっている。
当時、権勢を誇った平家一門の平清盛は14歳の時。
その息子の平重盛も14歳。
清盛の跡継ぎとなった平宗盛は11歳。
清盛のライバルだった源義朝は31歳。
その息子の源頼朝は13歳。

つまり、源平の有力者たちよりも、全然早い。
ちなみに、少し前に亡くなった津川雅彦さんと桂歌丸さん。
この方たちも、死後に従五位の位をもらっている。
まー、今と昔では意味合いが違うんだろうけど。。。

それで、当時、下鴨神社というのは、都を守護する大社として君臨していたらしい。
しかも、全国に70以上の荘園を持っていたとか。
分からないけど、朝廷との結びつき、経済力の豊かさが、半端なかったんだろうと思う。
そして、そういう背景もあって、長明さんは7歳にして従五位下の位をもらったのかもしれない。
その一方で、兄については、位の話は全くないみたいだけど。

多分だけど、長明さん、下鴨神社という大社の子として生まれて、周りからの期待も大きかったと思う。
偉大なる父がいて、高松院に可愛がられて、7歳にして貴族の仲間入りを果たす。
また、幼少の頃から、英才教育を受けたのではないか。
「お父さんに負けないぐらい立派な神職になりなさい」と。

それで、長明さん、いっぱい勉強したと思うのね。
特に、和歌や音楽の腕前は、秀逸だったらしい。
そうでないと、方丈記をはじめ、多くのすばらしい作品を残すことはできなかっただろう。
また、自分で楽器を作ったり、方丈の庵を建てたりもしている。
おそらく、ものづくりの才能もあったのではないか。
つまり、長明さんは、多才だったように思う。

そして、残された和歌によると、長明さんには、妻も子どもいたと思われる。
長明さん、方丈記の真ん中あたりで、「自分は、父方の祖母の家を相続するということで、ずっとその家に住んでいた」と書いている。
おそらく、その家で、妻子と仲良く住んでいたのではないか。

若くして、英才教育を受けて、官位もあって、妻子もいる。
後は、父と同じように神職の道を歩めば、人生はゴールだった。
ところが、長明さんの人生は、ここから一気に傾く。
正直、幼少期があまりにも順調すぎたために、その後は、万事が坂道を転げ落ちるような感じではなかったか。

長明さんが18歳の時に、父・長継が病没してしまう。
そして、22歳の時には、長明さんの庇護者だった高松院も亡くなる。
例えるなら、飛車と角を一気に失うようなもの。
で、当時は、出世するためには、父親の存在や母親の身分、支援者の存在が重要だったらしい。

父・長継が亡くなると、父の後継を巡って、長明さんは同族と争うもこれに敗れてしまう。
で、その後の長明さんがどういう暮らしをしたのかは分からない。
ただ、断片的な記録を繋ぎ合わせると、次のようになる。

・方丈記によると、「縁欠けて、身衰えて、相続するはずだった父方の祖母の家を出た」とある。
・方丈記のとおりだけど、長明さんは、五大災厄について色々と調べたり、現地を見たりしている。
・若くして、和歌や音楽に没頭した。
・あと、僕がよく出してくる源家長日記。
これには、長明さんは孤児で、下鴨神社の仕事もせずに、誰とも交流することもなく、部屋に引きこもってばかりだった、といったことが書かれている。

これらを総合すると、長明さんは、出世争いに敗れた後、仕事していなかったんじゃないか。
そのくせ、趣味の和歌・音楽には没頭して、五大災厄についても色々と調査をしている。
おそらく、長明さんの奥さん、働かない長明さんに対して、三下り半を突きつけたのではないか。
あるいは、長明さんの奥さんも若くして亡くなったのかもしれないけど、いずれにしても、長明さんが家を追い出されたのは、「仕事をしなかったから」だろう。

今でいう「ニート」だったのではないか。

源家長日記でも、長明さんは、仕事もせずに、ずーっと部屋に引きこもってばかりだったとある。
これでは、やっぱり、奥さんはイヤになるだろうね。
別に、神職にならなくても、何でもいいから働いて欲しいと思ったんじゃないだろうか。

あと、僕は、長明さんがこういう人生を歩むことになった理由として、慶滋保胤の影響も大きかったのではないかと思う。
僕が勝手にそう思っているだけだけど。
この慶滋保胤は、長明さんのご先祖様に当たる人物。
そして、長明さんと同じように、最終的に隠遁生活を送っている。
あと、この方、池亭記という作品を残しているんだけど、方丈記には、この池亭記から取られたと思われる表現が多い。

長明さんにとって、慶滋保胤は、人生の道しるべだったかもしれない。
長明さん、最初の目標はお父さんだったと思う。
それが、出世競争に敗れて神職の道が閉ざされた時点で、慶滋保胤が目標になったのではないか。
分からないけど、そんな気がする。

今回はこの辺で。

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