方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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夫、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねむごろなるをさきとす。

【原文】
夫、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねむごろなるをさきとす。必ずしも、情あると、すなほなるとをば愛せず。ただ、糸竹花月を友とせんにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきをさきとす。さらに、はぐくみあはれむと、やすく静かなるとをば願はず。ただ、我が身を奴婢とするにはしかず。

【訳】
そもそも、友達について考えてみると、お金持ちである者を大事にして、口のうまいものが好かれる。必ずしも、思いやりがあるだとか、正直であるだとか、そういったことは重視されない。それならば、音楽や自然を友とした方がよっぽどましだ。次に、使用人について考えてみると、ご褒美が多いであるとか、自分を引き立ててくれるだとか、そういったことを重視する。逆に、優しさであるとか、静かな生活は重視されない。であるならば、自分自身を使用人にした方がましだ。

【わがまま解釈】
方丈記の訳も、あと少しになってきた。
正直、大した内容ではないけど、色々と調べたり、考えながら書いていると楽しいなーと思う。
ただ、自分で色々と考えて書いて、後から見つけた記事を読んで、「えっ、これってこういうことなのか?」となることも多々あるのね。
で、うーん、僕の読み方はまだ浅いのかと思ってしまう。
まー、素人が訳して、素人があーだこーだ書いているだけだから、仕方ないだろう。
ごめんなさい。

それで、今回の訳も、かなり難しかった。
一応、自分で訳をする時は、手元にある本を参考にしている。
で、何冊かある。
当然だけど、全部、訳は違っている。
単語の意味はこうだけど、文章を訳したら、なぜこうなるというのがある。

すみません。
先に言い訳から入ってしまって。

長明さん、友達付き合いは、お金持ちが好かれると書いている。
富めるをたふとみは、お金持ちが好まれるで良いと思う。
それで、次の「ねむごろなるをさきとす」の部分。

「ねむごろ」
親切、親しい者、丁重である。

ということは、意味としては、親切な者を優先するとなる。
うーん、これだと、ここでの文章としてはおかしい。
だって、それがふつーだと思うから。
で、手元にある本を読んでみると、慇懃、おべんちゃらがうまい、愛想が良い、などと訳していある。
で、僕は、口がうまいと訳した。
ちょっと面白いことを言う奴ぐらいだろうか。。。

お金持ちが友達だと、何かと恩恵にあずかることができるのだろう。
そして、愛想が良いとか、口がうまい者は、気分を良くしてくれるのだろう。
つまり、こういった友達は、何かと打算が働きやすいと言いたいのだと思う。
打算とは、つまりは損得。
長明さんの時代も、損得で付き合いをするということが多かったのだと思う。

そして、思いやりがある、正直であるということは、付き合う上では重要視されないとある。
逆に言えば、当時は、これを重視しても出世できないとか、自分の名声や権力を高めることができないということがあったのだろう。

それぐらいなら、糸竹花月を友とした方が良いと長明さんは言う。
糸竹花月。
こんな言葉があるんですね。
これ、調べてみると、糸竹と花月の二つの言葉からできているらしい。

糸竹・・・糸が弦楽器、竹が管楽器を表すようです。音楽と訳しました。
花月・・・花と月ですが、自然と訳しました。

「糸竹花月を友とせんにはしかじ」は、直訳すると、音楽と自然を友とすることに及ばないとなる。
ちょっと訳に幅を持たせると、音楽と自然をともにした方がましだ、といったところか。

百聞は一見に如かずを、

「百回聞くことは一回見ることに遠く及ばない」
 ↓
「百回聞くよりも一回見る方がましだ」

というのと同じだろう。

次に、長明さん、使用人について書いている。
「賞罰はなはだしく、恩顧あつきをさきとすの部分。
これがまた微妙に訳が難しい。
単純に僕の訳が下手というだけか。。。

これ、

・賞罰がはなはだしいこと
・恩顧が手厚いこと

を優先するとある。

賞罰が度を超えているといっても、「賞」の部分が度を超えるなら、問題はない。
むしろ、「賞」の内容によっては、ウェルカムだから。
でも、「罰」の部分が度を超えるなら、それは嫌。
だけど、原文は「賞罰はなはだしく」と書いていある。

で、この場合だと、「賞」に注目するのが良いらしい。
つまり、使用人は、「ご褒美をはずんでくれることを優先する」となる。

実際、手元にある本でも、そういう訳になっている。
いや、それならそうと「賞はなはだしく」にしてくれよと思った。
古典が苦手な人は、こんなんでもストップするんだから。
当時は、これでも意味が通ったのだろうか。。。

で、次は、「恩顧が手厚いこと」を優先するとある。
恩顧ってことは、面倒見が良いとか、目をかけるということ。
いやいや、恩顧が厚いのを優先するって、普通じゃないのか。
でも、これだと、文脈的に訳がおかしくなる。
で、どういう風に訳せばいいのか。。。

もう少し、訳に幅を持たせないといけない。
で、手元にある本を見てみると、

・自分を引き立ててくれる
・自分を上に引っ張り上げてくれる

といったことが書かれてある。

以上をまとめると、使用人は、たくさんご褒美くれる主人、特別に自分を引き立ててくれるような主人を好むとなる。

要は、自分だけを(いい意味で)えこひいきしてくれる主人がいいってことね。

今だと、上の者は、公平・公正な判断ができる者が好まれると思う。
部下に対して、分け隔てなく接してくれる者が好まれる。
少なくとも、僕は、そう思っている。

ところが、長明さんは、自分だけ特別扱いをしてくれる主人が好まれると書いている。
なんだろう、このストレートな表現。
分からないけど、モラルが低いというか、欲深さを感じる。
逆に言えば、それだけ、当時の貴族社会は、生き残るのが大変だったのだろう。

そして、次は、「はぐくみあはれむと、やすく静かなるとをば願はず」。
はぐくみあはれむは、直訳すると、世話をするとか、面倒を見る。
ここでは、使用人をいたわる、ねぎらうという感じだろうか。
範囲を広げるなら、優しく接するとか、心を寄り添うとか。

やすく静かなるは、これがまた難しい。
なかなか適当な訳が見つからない。
一応、僕は、安らか、穏やかと訳してみた。

で、静かなるだけど、これは、落ち着いているとか、穏やかだろうか。
穏やかが二回出てきたけど。

ということは、「はぐくみあはれむと、やすく静かなるとをば願はず」というのは、

主人が使用人に対して、労わったり、優しく接したりするだとか、穏やかな落ち着いた職業生活・環境を与えてくれるといったことは、そんなに重要視されないとある。
つまりは、ご褒美をくれない主人は好かれないということか。

ここでは、使用人と従者の関係だけど、多分、全ての人間関係に言えることだと思う。
人付き合いのポイントは、いかに相手がメリットを与えてくれるか。
相手の内面的な部分は、二の次、三の次ということなのだろう。

長明さん、お父さんは、下鴨神社の正禰宜惣官だった。
で、お父さんには、たくさんの従者がいたと思うのね。
それが、お父さんが若くして亡くなると、お父さんの従者は、自分から離れていった。
一人欠け、二人欠けして、最後は誰も残らなかったかもしれない。

しかも、その従者たちは、「自分だけ特別扱いをしてくれる主人」を望んでいる。
長明さん、自分が出世の道を断たれたのだから、当然、従者たちに恩恵を施すことはできない。
しかし、従者たちは「自分だけ特別扱いをしてくれる主人」を望んでいる。
みんなが「自分だけを特別扱いしろ」と思っている。
長継も、長明さんも、大変だったかもしれない。
いや、この時代は、上に立つ人はみんなそうだったのか。
それとも、ご褒美で人が釣れると考えれば、上の者としては楽だったのか。

このあたり、僕たちも、少し考えた方が良いのかもしれない。
僕たちも、損得で動くこと多くないですか。
損得の発想をしがちじゃないですか。
何かを検討する時に、すぐにメリット・デメリットを比較してしまう。
確かに悪いことではないし、合理的な判断だとは思うけど、「自分だけを特別扱いしろ」というのは、尺度としては適当な範囲を超えた、行き過ぎた損得理論のように思う。
最後、話が脱線しました。

今回はこの辺で。

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