方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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河合神社の禰宜を巡る争い①

今回は、河合神社の禰宜を巡る争いについて。
別名、河合社禰宜事件なんて呼ばれたりもするらしいけど。

これ、長明さんの人生史上最大の事件。
どこまで書けるか分からないけど、ドラマチックに書いてみたい。
できれば、小公女セーラ風に。
て、アニメかよっ!

長明さん、下鴨神社の正禰宜惣官を務めた鴨長継の子として生まれる。
下鴨神社の跡取り候補として、大事に育てられた。
また、英才教育も受けた。
当時、天皇だった二条天皇、その奥さんである高松院からの寵愛もあった。
それもあってか、7歳にして、従五位下の位をもらっている。
従五位下ということは、朝廷から貴族として認められたということ。
これは、当時、権勢を誇った平家一門の者たちからしても、だいぶ早かった。

しかも、長明さん、若くして妻子もいた。
全てがトントン拍子だった。
あとは、父の跡を継いで、下鴨神社の正禰宜惣官になれば、人生はゴールだった。

ところが、長明さん、ここで不運が起きる。
父・長継が34歳の若さで亡くなってしまう。
長明さん、17歳の頃だった。

平安時代は、出世するためには、父親の存在が一番重要だったという。
しかし、長明さんは、それを失ってしまう。
長明さん、毎日、嘆き悲しんだらしい。
周囲の人が「元気を出しなよ」と言っても「ほっといてくれ」という感じ。
「どうせ、お前に俺の気持ちが分かるか!」と。

その後、30歳前後までに、下鴨神社の人事が何回か行われた。
僕が調べた範囲では、4回あった。
長明さん、人事が発令されるたびに、自分が下鴨神社の役職に就けることを願っていた。
しかし、ただの一度も役職に就くことはなかった。
一方で、ライバルだった鴨祐兼は、どんどん出世していった。

そして、30歳を過ぎた頃。
長明さんは、下鴨神社の正禰宜惣官の地位をかけて、鴨祐兼と争う。
しかし、ここでも敗れた。
そして、長明さん、神職の道を完全にあきらめる。

しかも、長明さん、それだけではなかった。
長明さん、父方の祖母の家を相続するということで、その家にずーっと住んでいたけど、その家までも追い出されることになった。
方丈記には、「縁欠けて、身衰えて」とある。
父をはじめとして、長明さんの支援者が次々と消えたのだろう。
また、神職の道に進めない以上、出世も叶わず、身も衰えたのであろう。
結局、三下り半を突きつけられる形で、祖母の家を出た。

もちろん、妻子は残したまま。
辛かったと思う。
その後、鴨川の河原に家を建てた。
粗末な家だった。

それから、しばらく、長明さんの暮らしは分からない。
残された資料によると、歌会には参加していたらしいけど。
どうやら、趣味の和歌と音楽に没頭していたらしい。
で、下鴨神社の仕事は、どうやらさぼりがちだった。
もしかしたら、神職をあきらめた以上、下鴨神社の仕事はどうでも良かったのかもしれない。

ところが、長明さん47歳の時。
少しだけ光が差し込む。

当時、朝廷トップの後鳥羽上皇が、新古今和歌集の作成を考える。
で、そのために必要なメンバーを集める。
このメンバーは、後に、和歌所寄人と呼ばれる。

ちょっと脱線するけど、この後鳥羽上皇も、不幸な人だった。
後鳥羽上皇、兄は安徳天皇だった。
兄・安徳天皇は、平家一門の切り札となったが、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた際に、安徳天皇も6歳で海に沈んでいる。
しかも、平家一門が三種の神器を持ったまま都落ちをしたために、後鳥羽上皇は、三種の神器を欠いた状態で天皇になったけど、後鳥羽上皇、このことをずーっと気にしていたらしい。

それで、この後鳥羽上皇だけど、一番有名な事件は、承久の乱。
後鳥羽上皇、鎌倉幕府を倒すべく挙兵する。
下馬評では、朝廷が圧勝するということだった。
ところが、朝廷は、鎌倉幕府に大敗してしまう。
その結果、後鳥羽上皇は隠岐の島に島流しとなり、その地で没する。

で、話を戻して、和歌所寄人。
以下の方々が選ばれる。

藤原良経
慈円
土御門通親
源通具
藤原俊成
藤原定家
寂蓮
藤原家隆
藤原隆信
藤原有家
源具親
藤原雅経
鴨長明
藤原秀能

これに事務職の源家長を加えて全部で15名。
もーね、すごいでしょ?
僕は、藤原定家と鴨長明しか知らなかったけど。。。
でも、当時の和歌のスーパースター集団。

で、長明さん、これに選ばれたわけ。
まー、追加募集だったみたいだけど。
それでも凄いんだけど。

今まで、まともに働いたことがなかった長明さん。
ついに、自分が最も得意とする和歌で、就職が決まる。
下鴨神社の神職にはなれなかった。
でも、歌人として表舞台で活躍することができる。
長明さんとしても、当初の道とは違うけど、これはこれで満足だったのではないか。

で、この時の様子を、源家長が日記に残している。

【原文】
すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。

【訳】
だいたい、この長明という人物は父親を亡くして以来みなし子であって、実家の下鴨神社の仕事もしなければ、人との付き合いもなく、ただ自分の部屋に籠ってばかりでした。
それが、今回、新古今和歌集を作成するにあたって和歌所寄人に選ばれると、歌会にも真面目に参加するし、常に和歌の研究もするなどして、真面目に仕事を行っており、一旦仕事場に入れば外に出ることがなく、一日中を通して真面目に働きました。

源家長としても、「長明さん、使いものになるかな」って思っていたんじゃないだろうか。
ところが、長明さんの仕事ぶりは、想像以上だった。
とにかく、働きまくった。

今回はこの辺で。

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