方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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下鴨神社の正禰宜惣官を巡る争い

長明さんの父・長継は、若くして下鴨神社の正禰宜惣官に上り詰めている。
どうやら、兄が亡くなったことが関係しているらしい。
父・長継が正禰宜惣官になれたのは、ある意味、運もあっただろうか。

父・長継が正禰宜惣官になったのが17歳。
で、亡くなったのは17歳。
つまり、正禰宜惣官を17年間務めたことになる。

ところが、晩年は、病がちになり、正禰宜惣官の務めを果たすことができなかったらしい。
それで、同族の鴨祐季という者が、父・長継の代理として下鴨神社の正禰宜惣官を務めている。
そして、父・長継の死後、正式に鴨祐季が下鴨神社の正禰宜惣官となる。

ところが、鴨祐季が下鴨神社の正禰宜惣官になったタイミングで、下鴨神社が延暦寺と土地争いを起こす。
しかも、この争いが原因で鴨祐季は失脚してしまう。
ちなみに、延暦寺側の上の人も処罰されたらしい。
そして、再び、正禰宜惣官の地位が空白となる。

ここで、下鴨神社の新しい正禰宜惣官として立候補したのが・・・

「鴨長明」と「鴨祐兼」

の二人だった。
まさに一騎打ち。

ところで、長明さんの方は、父がいないので、自分を支える有力者がいない。
一方の鴨祐兼。
この方も良く分からないところがあって、資料によっては、鴨祐季の子となっているものもある。
ただ、本とかどうかは分からない。
僕の手元にある本だと、鴨祐直の子となっている。
ただ、いずれにしても、「祐」の字がある以上は、鴨祐兼は、鴨祐季や鴨祐直に近い人物なのだろう。

で、二人は、激しく火花を散らして戦う。
そして、長明さんは、これに敗れてしまう。
それで、僕は、激しく火花を散らして戦ったと書いた。
でも、本当は、長明さんの完敗だったように思う。

僕も、本当は、激しい攻防の末に敗れたと書きたい。
でも、今までの長明さんの様子を振り返ると、どうも勝ち目はなさそうな気がする。
僕の推測の域を出ないけど。。。

それで、ちょっと調べてみると、どうも、下鴨神社の正禰宜惣官になるまでに、神職の道へ進むためのいくつかのポイントがあったらしい。
国文学者だった貴志正造教授の論文によると、次のようになる。

①1170年:父・長継の病気・引退に伴う後任の人事
②1175年:鴨祐季の失脚に伴う後任の人事
③1182年:鴨長平の死去に伴う欠員補充の人事
④1184年:鴨祐季の引退に伴う後任の人事

で、順番に見ていく。

①1170年:父・長継の病気・引退に伴う後任の人事
これは、下鴨神社の正禰宜惣官を務めた、鴨長継の病気・引退のため、行われた人事。
この時は、長明さんは15歳前後なので、年齢的には役職に就くのは早いと思われる。
これによると、鴨長継の後任は、下鴨神社の権禰宜だった鴨祐季がなっている。
また、その空いた下鴨神社の権禰宜には、河合神社の禰宜だった鴨長平(鴨祐季の弟)がなっている。
で、この時点では、全く、長明さんの名前は出てこない。

下鴨神社 河合神社
禰宜 権禰宜 権祝 禰宜
 1170   鴨長継   鴨祐季   鴨惟明   鴨輔光   鴨長平   鴨秀輔 
 1171   鴨祐季   鴨長平   鴨惟明   鴨輔光   鴨季平   鴨秀輔 

②1175年:鴨祐季の失脚に伴う後任の人事
これは、下鴨神社と延暦寺が土地争いから暴力事件が発生した結果、その責任を取る形で鴨祐季が正禰宜惣官を降りたため、その後任の人事。
また、河合神社の禰宜・鴨季平の解職に伴う後任の人事。
つまり、二つの人事があったことになる。

鴨祐季が失脚した後、下鴨神社の禰宜・権禰宜は、鴨長平が独占している。
また、今回の人事で、鴨祐兼が河合神社の禰宜になっている。
ちなみに、下鴨神社の祝・鴨輔光は、長明さんに「死んではいけませんよ」と助言したあの人物。
で、ここでも、長明さんの名前は出てこない。

下鴨神社 河合神社
禰宜 権禰宜 権祝 禰宜
 1175   鴨祐季   鴨長平   鴨輔光    ―    鴨季平    ―  
 1176   鴨長平   鴨長平   鴨輔光    ―    鴨祐兼    ―  

③1182年:鴨長平の死去に伴う欠員補充の人事。
下鴨神社の権禰宜・鴨長平(鴨祐季の弟)が亡くなったことによる、欠員補充の人事となる。
この人事で、鴨祐兼が、河合神社の禰宜から下鴨神社の権禰宜に昇格する。
また、以前、解職された鴨季平が、再び、河合神社の禰宜に復帰している。
しかも、いつの間にか、失脚したはずの鴨祐季までもが復帰している。
このあたり、どうやって復帰したかは分からないけど。。。

ここでも、長明さんの名前は出てこない。
ちなみに、長明さん29歳。

下鴨神社 河合神社
禰宜 権禰宜 権祝 禰宜
 1182   鴨祐季   鴨長平    ―     ―    鴨祐兼    ―  
 1183   鴨祐季   鴨祐兼    ―     ―    鴨季平    ―  

④1184年:鴨祐季の引退に伴う後任の人事
下鴨神社の正禰宜惣官を務めていた鴨祐季の引退による、後任の人事。
ここで、長明さんと鴨祐兼が激突する。
で、結局、長明さんの名前は出てこない。
一応書くと、この後、50歳を前にして、河合神社の禰宜になるチャンスが巡ってきたけど、そこでもなれなかった。
その一方で、鴨祐兼は、とんとん拍子に出世している。

下鴨神社 河合神社
禰宜 権禰宜 権祝 禰宜
 1184   鴨祐季   鴨祐兼    ―     ―    鴨季平    ―  
 1185   鴨祐兼   鴨季平    ―     ―    鴨祐綱    ―  

長明さん、神職になれなかったから引きこもりになったのか、ずーっと引きこもってばかりいたから神職になれなかったのか、どちらが正しいのかは分からない。
ただ、何回か、チャンスはあった。
でも、神職の道は叶わなかった。
やはり、父親がいないことが大きく影響したのかもしれない。

こうしてみると、長明さんが、下鴨神社の正禰宜惣官の争いに敗れたのも、分かる気がする。
鴨祐兼は、河合神社の禰宜、下鴨神社の権禰宜と確実にステップアップしている。
しかし、長明さんは、下鴨神社の禰宜にすらなれていない。
やはり、最初から、勝負はあったのかもしれない。

だから、趣味の和歌や音楽に走った部分もあるのだろうと思ってしまう。
長明さん、方丈記には「縁欠けて、身衰えて」と書いている。
もしかしたら、こうやって「身衰えて」となったのかもしれない。

また、「縁欠けて」の部分。
最大の「縁欠けて」は父を失ったことだろう。
ただ、その後は、こういう運のなさも重なって、職場でも家庭でも、徐々に縁を失っていったのかもしれない。

今回はこの辺で。

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