方丈記に、似た運命

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藤堂高虎~主君替えと築城で名高い名将

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 174
戦闘 136
智謀 172
魅力  72
野望  85

今回は、藤堂高虎。
一応、この方、最後は大名にまでなったすごい人。
しかも、城造りが上手だったことでも有名。

信長の野望をしていても、かなり使える武将であることは間違いない。
ただ、戦闘が低いのよね。
何でかは分からないけど。
多分、戦いで有名なエピソードがないせいかな。

この藤堂高虎。
どういうわけかあまり人気がない(ように思う)。
で、今回は、そのへんの原因を探りながら、藤堂高虎の魅力に迫っていく。
なんて書くと、歴史秘話ヒストリアみたいな感じもしないでもないけど、全然違うから。
それらしくテキトーに書いているだけだから(笑)
ごめんね、ごめんねー。

それでね、藤堂高虎について調べると、まず出てくるのが主君替えの多さ。
「藤堂高虎=主君替え」
っていうイメージが、どうしても付きまとう。

それで、どれぐらい主君替えをしたのかと言うと、次のよう感じ。

1番目の主君 浅井長政
2番目の主君 阿閉貞征(旧浅井家臣)
3番目の主君 磯野員昌(旧浅井家臣)
4番目の主君 織田信澄(織田信長の甥)
5番目の主君 豊臣一族(豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼)
6番目の主君 徳川一族(徳川家康→徳川秀忠→徳川家光)

ちなみに5番目の場合。
豊臣秀長が亡くなったから、跡継ぎの豊臣秀保に仕える。
豊臣秀保が亡くなり、後継ぎもいなかったので、豊臣秀吉に仕える。
豊臣秀吉が亡くなったから、後継ぎの豊臣秀頼に仕えている。
だから、まー、順番に仕えただけ。

ちなみに6番目の場合。
徳川家康が亡くなったから、跡継ぎの徳川秀忠に仕える。
徳川秀忠が亡くなったから、跡継ぎの徳川家光に仕える。
これも、まー、順番に仕えただけ。

ついでに書くと、2番目の主君・阿閉貞征に仕えたのも、1番目の主君・浅井長政が織田信長によって滅ぼされたことが原因らしい。
だから、決して浅井長政を裏切ったわけではない。

ただ、織田信澄に仕えた時だけは別らしい。
「こんなやつの下で働けるか!ボケ!」
と言ったかどうかは分からないけど、とにかく不満があって出ていったらしい。

つまり、主君替えの多さを指摘される割には、意外と自分から主君を裏切ったということはない。
織田信澄は例外だけど。
それで、この時代、主君替えは珍しいのかと言うと、そうでもないらしい。
むしろ、生死がかかっていたり、実力主義的なところもあって、主君替えって多いとも聞く。

例えば、可児才蔵。
別名「笹の才蔵」なんて言われたりもするけど、この方の経歴はこんな感じ。

斎藤龍興 → 柴田勝家 → 明智光秀 → 前田利家 → 織田信孝 → 豊臣秀次 → 佐々成政 → 福島正則

けっこうと主君替えをしている。
でも、武芸のうまさは評判になっても、悪い評判を聞いたことはない。

また、僕は知らなかったけど、水野勝成という武将。
この方も最後は大名にまでなるんだけど、主君替えの多さは藤堂高虎よりもはるかに多い。
でも、調べた範囲では悪い評判はなさそう。
もしかしたら、当時から水野勝成ってそんなに知られていなかっただけで、知られていたら「あいつ、コロコロ主君代えた悪いやっちゃで」って言われていたかもしれないけど。

極めつけは真田昌幸。
武田家滅亡から本能寺の変、その後の豊臣秀吉に臣従するまでのわずかの期間で、

武田 → 織田 → 北条 → 徳川 → 上杉 → 豊臣

と目まぐるしく主君を変えている。
しかも、石田三成から「表裏比興の者」なんて言われて一目置かれている。

で、藤堂高虎の場合、なぜ後世の評価が低いのかと言うと、豊臣家から徳川家への変わり身の早さ、これが一番ではないかと思っている。
あくまでもの僕の個人的な意見だけど。

例えば、関ケ原の戦いの時、豊臣恩顧の大名たちって、石田三成と徳川家康のどっちに味方するかで迷っている。
分からないけど、福島正則やか加藤清正なんかは、最後の最後まで迷ったんじゃないかな。
真田家や九鬼家は親子で分かれて戦っているし、前田家も兄弟で分かれて戦っていたりする。
佐竹家や蜂須賀家はどっちに味方するかを鮮明にしていない。

ところが、藤堂高虎の場合、あっさりと徳川家康の味方をしている(ように見える)。
一応、豊臣恩顧の大名なのに。。。
岐阜城攻めにも参加し、石田方の武将に対して寝返り工作もしている。
また、大坂夏の陣では、徳川家のために多大な犠牲を払っている。
そのため徳川幕府からは、外様大名なのに譜代大名としての扱いを受けている。

しかも、この高虎、やり働きもできる。
お城を造らせても、うまい。
豊臣から徳川への移り身の早さも良くて、最終的に32万石の大名にもなった。
政治力もきっとすごかったんだと思う。
つまり、できる人間だったんだと思う。

ただ、こういう人間って、ひがみ・やっかみも多かったんじゃないかと思う。
豊臣恩顧の大名からは裏切り者扱いされる。
徳川家の人間からは「あいつは信用できん」と思われる。
だから立場的にはどっちからも「なんだこいつ」って思われて、信用されることがなかったように思う。
だから、余計に家康なり徳川家の信頼を取っておく必要があったのかもしれない。

ちなみに、高虎自身「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と残しているらしいのね。
多分、主君替えの多さを指摘されることも多かった、あるいはそのことを自覚していたと思う。
だから、高虎からすると、逆に「俺は、主君替えをいっぱいしてきたけど、それが何か?」ぐらいの開き直りもあったんじゃないかって思う。

これがね、もし、高虎が5万石程度の大名だったら、どうかなって思う。
こんなこと言われずにすんだんじゃないかなー。
やっぱり、高虎は、外様大名なのに破格の待遇を受けすぎたのかもしれない。

最後に、この高虎、転職回数(主君替え)が多く苦労したせいか、家臣には優しかったとか。
それで、家臣の中には、他家に働きに行こうとした者もいる。
で、そういう者には、ちょっとしたもてなしをしたんだとか。
その上で「もし、行った先でがうまくいかなければ、いつでも戻っておいで」と言って送り出したそうで、人情に篤い部分はあったんじゃないかなー。

今回はこの辺で。

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